cocoせせらぎホームページ       2022・8・1

*共生 *共助 *相互扶助 *助け合い *利他***** その2      2022・8・1

『思いがけず利他』を読んで

7月のホームページで cocoせせらぎはほんとに終の住処になれるだろうか・・・だれかの看取りを迎えられるほどに おたがい助けあう仲間になれるだろうか・・・という以前からのモヤモヤを書いてみたのですが 最後にいきついたのが『思いがけず利他』という本でした。

この本が私のモヤモヤとつながるかな? と思いつつ 買ってみたのですが。。。

私は利他という言葉に 前回も書いたようにオナカのあたりがモゾモゾしてくるような 一種気恥ずかしさを感じており この本の広告をはじめて見たとき こんなタイトルの本が日本に出てきたんだー と正直びっくりしました。この言葉を知らなかったわけではないけど 今の日本の日常会話では使わないかなーと。

この本を書かれた中島岳志さんは東京工業大学の先生。同大学の「未来の人類研究センター」というところで 9名の先生方が “利他プロジェクト”を共同で進め その過程で書かれた本 ということです。未来の人類にとって 利他ってどんな意味をもつのだろうか?

この先生方は 利他に新しい時代の予兆があるのではないか・・・とプロジェクトを立ち上げたそうです。「自己責任論がはびこり 人間を生産性によって価値づけるこの社会を打破する契機が 利他には含まれている」と。

利他は読んで字のごとく「他に(を)利する行為」 利己的な行為の反対語。中島先生は これをどんどんやりましょう! と勧めているのかな と思ったら全然そうではなく よく読んでいくと私が感じていた「利他」に対する気恥ずかしさの原因のような 微妙なポイントから書きはじめられていました。

「他に利するというと ボランティア活動とか寄付行為 相手がなにか困っている時に援助・ケアなどの手を差しのべる・・・などが挙げられますが 利他的行為をする人に対して  ”意識高い系”  “偽善者” と言いたくなることがあります。

また ”善い人” というセルフイメージを得たくて の利己的行為なのでは??と言いたくなることもあります。

もう一つ 利他行為の押しつけがましさが ときに相手へのプレッシャーとなって ” お返しをしなければ “ という負債感や あげる人・もらう人という上下関係 もしくは支配・被支配の関係ができあがっていくこともある。」

中島先生は今の日本を見渡してこのように分析し これらを利己的な利他と呼びました。「このような利己的な利他によっては ほんとうの利他の循環は起きない。利己的なメッセージ付きの贈り物は やはり不愉快です。これがいずれ私に利益をもたらしますように と暗に言っているような行為を受け取っても 利他の喜びはおきません」と。

では人のためになにかするとき 偽善とか負債・支配・利己性などをこえて 本当の利他にたどり着くには? 中島先生は利他の本質には「思いがけなさ」があると考えました。落語「文七元結」の博打にはまった腕のいい職人(根っからの善人でも   模範的な人間でもない 困り者の長兵衛さん)が人助けをする話や 親鸞の言葉 ヒンディー語の与格構文 染色・陶芸・料理の世界などを例にひいて「思いがけなさ」を説明しています。IMG_0001

(せせらぎの3階から見た6月の朝焼け)

偶然通りかかって 身が動いてしまって ついやっちまった・・・意図したのではない 意思の外側からやってくる不可抗力な業 どうしようもないもの 向こうからやってくる行為・・・それが利他だというのです。

向こうからやってくる・・・褒められたいからやるのでなく ついやっちまったの世界。これを利他とすると ついやっちまった行為でも 周囲はやはり褒められたいからだと思うかもしれない。「ここまできて見えてくるのは ある行為が利他的になるか否かは 事後的にしかわからないということです。与え手が利他だと思ってやった行為であっても 受け手にとってネガティブな行為であれば ありがた迷惑というものです。つまり利他は与えた時に発生するのではなく 受け取られた時にこそ発生するのです。その行為が利他的なものとして受け取られたときにこそ 利他が生まれるのです。」

ここを読んだとき 私はハッとわかりました。自分が利他と思って ついなにか手助け的なことをやっちまったとき その時には判断できないけど 受け手が後でそれを利他だと思ってくれたら それは利他だ。相手が利他と思わない可能性もあるけど 利己:利他の確率は半々! 判断は相手にまかせて「人の目を気にしたりせずに いいと思ったことはやればいいんだ」と私なりの理解をしました。

前回「世界人助け指数」で日本は最下位だったと書きましたが つまりこの国には人助けのいい受け手がいない 人の好意をうまく受け取れる人が少ないということかな。。。

いまの日本で援助の与え手になることは断然簡単だが 受け手になることは断然ツライ と私自身も感じていて・・・つまり私もうまく親切な行為の受け手になれない人間なのだと自覚するのですが・・・その答えもここに見つけることができました。

「利他は与えた時に発生するのではなく 受け取られた時にこそ発生する」のだったら 相手の親切な行為をありがとうと受け取ることこそ 利他なんじゃないか・・・と。

看取りのシーンを想像してみて 仲間がもし援助してくれたら ただただ「ありがとう」と言って受けとれるか?? このことを次に書いてみたいと思います。        (土)