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cocoせせらぎホームページ   2022・9・20

せせらぎにもコロナが・・・      cocoせせらぎホームページ 2022・9・20

「中国でよく分からない感染症が発生した」というニュースを聞いたのが 2019年のお正月の頃でした。横浜に停泊していた豪華客船ダイアモンド・プリンセス号から日本にも広がりはじめて 死者が増えていき・・・コロナの正体も対処法もよく分からないまま。

第1波といわれる頃には 病床ベッドが足りない! 人工呼吸器が足りない! 志村けんさんもエクモを使ったのに亡くなった! 県を越えて移動しないように! などなど怖いニュースに振りまわされていました。エクモって何?などと言いながら  なにしろ手洗い・マスク・換気に気をつけ 手が触れそうなところをぜんぶ消毒して回ることで 日々の不安を追いはらっていました。

2波 3波・・・寄せては返すコロナの波にもまれつつ第7波まで 私たちはなんとか奇跡的にコロナにかからずにここまでやってきましたが ついに。誰がなってもおかしくないね と私たちは話しあっていましたので そんなに慌てずに対処できたと思います。

cocoせせらぎとして コロナ感染の記録を残しておこう ということでご本人とライフサポーターさんに 文章にまとめていただきました。IMG_0026

コロナ感染記

*7月29日の朝「前夜から微熱(37.5℃)、血中酸素97(正常値)、軽い咳。呼吸障害や頭痛などなし」とライフサポーター Fさんに電話連絡した。理事長と副理事長にもライフサポーター から連絡。                                          *ライフサポーターSさんが購入してきてくれた抗原検査キットで、本人と長女(父と一緒に法事出席するため、たまたませせらぎに宿泊中だった)が検査した結果、本人は強い陽性反応。長女は陰性だったが、濃厚接触者となる。                             *かかりつけ医であるしまむらクリニックに電話をして状況を話すと、発熱者は外来に来ないようにと。後刻、保健所から症状聞き取りの電話があった。食糧支援を依頼した。(2日後に宅配で食品数種類とトイレットペーパーなどの日用品がかなりの量 届いた。)
*川崎市新型コロナウィルス感染症コールセンターに電話したが連絡がつかなかった。

*酒井運営委員からの通達が入った。                           ①入居者は3日間は基本的に部屋から出ないように。                     ②せせらぎで行う催しはしばらく様子をみる。                       ③スタッフに連絡をとる。                                ④調理スタッフには通常通り作ってもらい、それを順次取りに行き、個食とする。
⑤食器の片づけも順次おこない、基本的に集まらないようにする。              ⑥本人と長女は、個室で一緒に食事をする。                        (食事のお盆は隣室のNさんが個室ドア前に届け、ドア前に出された食後の食器もまたNさんが洗って乾燥器に入れる、ということをお願いした。)                      *運営委員の木村さん夫妻から助言をいただく。                      ①長女の洗面やトイレ使用は本人の部屋で。                        ②洗濯はいつも使用している洗濯機で。                          ③浴室は最後に使用する。                                ④部屋の換気は頻繁に行う。

*川崎市保健所感染対策課との電話相談では、本人は80歳で高齢者なので、重点患者として登録されているとのこと。毎日、聞き取り調査の電話があった。連日軽い症状で推移しているが、もし容体が急変した場合は救急車を呼ぶようにとのことだったが、そこには至らず。発症後7日目が堺で、快方に向かうか悪化するかの分岐点になるという。                   *感染者本人の隔離期間は症状が出た日から10日間で、8月7日までだった。         *濃厚接触者隔離期間は、7日から5日に変更されたそうで、長女の場合は8月11日に解除された。

2週間余りの間、私たち父娘の生活を支えてもらいました。誠にありがとうございました。なお、娘より「父と私に対するみなさんの温かい応対をいただき、かねてより父が申しているグループリビング運営の素晴らしさに感動しています。せせらぎにはまた来たいと思います」との言葉がありました。                                (池)IMG_0006 

ライフサポーター として

7月末、入居者の一人の方がコロナにかかりました。                    発症の2日前、猛暑のなか歩いて30分くらいかけてお帰りになったのがとても気になっていました。いつもとはちがい、とても疲れた顔をされていました。                 大丈夫かなぁと思っていたのですが、その次の夜、事務局長のFさんから電話があり、その方が発熱し、喉の痛みもあるとのこと。連絡をもらったのが夜だったのでなにもできなかったのですが、翌朝せせらぎに行くまでに何ができるかを、私は考えていました。

まず、コロナであるか、そうでないかをはっきりさせないと、入居者のみなさんの不安につながると思い、薬局が開く時間に電話で抗原検査キットがあるかを5軒ほど聞きました。コロナが増えていて、ほとんどキットが売りきれ状態・・・1軒だけ売っていると聞き、すぐ買いに行きました。せせらぎに着いてすぐ検査を実施すると陽性でした。

さてこの後の対応どうしたらいいのかと・・・せせらぎは老人福祉施設ではないので厚労省の指導・支援もなく、いろんな事がわからないことだらけ・・・そしてコロナ発生の頃とは国や保健所の対応がかなり変わっていましたので、どうしていくかを、入居者の運営委員Tさんとすぐ相談しました。まず入居者全員の方に現状を把握して貰い、どうするかを入居者みんなで話し合いしましょうとTさんから提案があり、サロンにみんなで集まりました。

一番の問題は、みなさんの夕食でした。もし夕食を作ってもらえないとなると、みなさんにはお弁当を買ってくるという対応になる予定でした。が、今はだいぶ制限がゆるくなっていることもあり、調理の方が入居者の方と接しないように調理をし、調理が終わったら運営委員のTさんに連絡、Tさんから入居者に順々に連絡。そして各自が部屋で食事をとれば接しないのでは という意見が出ました。調理の担当の方に連絡を取ると、協力して頂けると了解して貰いました。みなさんホッとされていました。

ライフサポーターは専門的な知識はなく、今後どうしていくか・・・運営委員のなかに奥様が保健師さんという方がいらっしゃったので、その方に連絡をすると、とても適切なアドバイスを頂き、結果コロナは誰もうつらずに過ごすことができました。

再度入居者のみなさんに集まって頂き、話し合いを設けました。運営委員の方が入居者&スタッフの抗原キットを確保してくださり、調べてみると全員が確実に陰性で、みなさん安心することができました。

最初に入居者の方の異変に気づいてくださったのは夕食担当の調理の方でした。普段から食事の様子を見てくださっていて、普段とちがう様子を事務局長に伝えてくださったことだと思います。せせらぎに関わる人たちの報連相(報告・連絡・相談)、チームワークのすごさを実感しました。

日頃のこまめな感染対策や4回目ワクチン効果などもあり、二人目感染が出なくてホッとしました。この間、数回にわたる入居者の話し合いがもたれ、そこで「何を手伝えばよいですか」などの声がだされ、それぞれが出来るところでの応援体制ができ、入居者、スタッフの協力で乗り越えられました。元気な高齢者のシェアハウスならではの2週間が過ぎ、ご本人の快気祝い、濃厚接触者だったご長女とのお別れをかねて、夕食会で乾杯をしました。「自立と共生」のせせらぎらしい助け合いができ、嬉しかったです。                               今回の体験から、せせらぎの中でも適宜に相談できるアドバイサーが必要ではないかと思うのと、保健所、医療機関の対応がもう少しスムーズにできたらよかったと思います。                              ライフサポーター (佐)

 

~ ~ 秋の気配が ~ ~

あんなに暑かった夏が ふと気づくともう秋風になり いつの間にか蝉の声が聞かれなくなっています。せせらぎ遊歩道の夜の散歩に出ると 秋の虫の声が繁く 小川では魚が水音をたてて・・・めぐまれた所にいるんだなぁとしみじみ・・・                       植物も夏から秋への模様替えです。近隣で撮った最近の花の写真を並べてみました。

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夏の終わり エノコログサ

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ネムの花 夢の中のようなIMG_0012

つぎつぎと花を咲かせるキキョウIMG_0013

たくさん実をつけたフウセンカズラから 来年のために種を取りましたIMG_0011

春には真っ白な花を咲かせるのに 秋になると真っ赤な実をつける不思議なヤマボウシIMG_0021

色っぽい芙蓉の花IMG_0009

街中ではめずらしいカラスウリの花 繊細なレース編みのようIMG_0019

たわわに実をつけたムラサキシキブ ひと枝いただいてきました。IMG_0021

にぎやかな街なかにも中秋の名月が          (土)

 

 

cocoせせらぎホームページ 戦争特集 2022・8・15

cocoせせらぎホームページ                  2022・8・15

  戦 争 特 集

終戦記念日が今年もめぐってきました。

cocoせせらぎに入居している平均年齢80歳くらいの私たちは 多分若い世代が感じるのとはちがった気持ちで この日を迎えます。それは幼いながらその戦争を実際に経験したから。

しかし今まで その体験を話すこともなく過ごしてきました。もし今話さなかったら 私の命が消えると同時に私の経験も消える・・・今話しておかなかったら その経験は無かったことになってしまう 若い人に伝えたい!・・・と考えて 何人かの方に「戦争の頃 どこにいらしたんですか」と声をかけると 思い出の糸がほどけるように出てきました。

今回5人の方の経験をホームページにまとめました。

終戦時に何歳だったかによって記憶の鮮明さにちがいがあります。(石)さんは終戦の時にはまだお腹の中 (土)さんは3~4歳   (KH)さんは6歳 (三)さんは9歳 (前)さんは12歳 それぞれの年齢での戦争を 思い出すままに書いていただきました。なお(KH)さんは入居者の友人 入居を考えてせせらぎの見学にも来られた方です。IMG_0005                      (せせらぎ遊歩道 ピンクのサルスベリ)

暑い夏 私の広島

私は第二次世界大戦敗戦の年 昭和20年12月に大阪の郊外で生まれました。

8月6日に広島に 9日には長崎に原子爆弾投下 15日に敗戦となりましたが 私はまだ母の胎内にいました。

広島には縁もゆかりもなく 原爆については教科書でキノコ雲の写真を見たことがあるというくらいで なんの知識もありませんでした。

中学2年の夏に 父の転勤先である広島市に引っ越し それからの3年間の広島での生活で 今も私の反戦への思いを強く方向づけた経験があります。

その一つが転校先の中学校での出来事です。クラスメイトに小頭症の男の子がいました。その人はときどき授業中にもてんかん発作を起こしていたのです。

担任の先生から胎内被爆によるものだと聞き びっくりと同時に原爆の恐ろしさをまざまざと見せつけられました。

またクラスで原爆手帳を持っている人は? との問いかけに かなりの数の生徒が挙手をしました。常日頃なにごともなく付き合っている友だちも いつ影響が出るかわからないものを抱えているのだと思い知らされました。

もう一つは 爆心地近くの銀行の石の階段に座っていたと思われる人の影が 石段に焼き付いていたのを見たことです。投下から十数年が経っていましたが 街中の石造りの建物(銀行)の階段に座っていたと推測される人が 原爆による熱線を受けて瞬間に影となって閉じ込められたというか 黒い人影となって残っていました。朝の8時15分のことでした。一日の生活が始まっている時間ですから 多くの人が歩いていたでしょう。銀行の前を通るときは いつも手を合わせずにはいられませんでした。

今はもう77年もたって あの石段や人影を直接見た人間も ますます少なくなっていきます。私自身は戦争体験もありませんが 暑い夏になると原爆のことを思い 戦争はあってはならないと思い 今の日本はどちらを向いているのかが心配でなりません。 (石)IMG_0006                                   (白いサルスベリ)

 

仙台空襲の晩

私は今80歳なのですが 実際に戦争に遭遇した もう数少なくなった一市民として 私の出会った戦争についてお話ししたいと思います。

東北の街 仙台で空襲の被害を受けたのは私が3歳8ヶ月の時だったのですが その時期の他のことは忘れても 1945年7月9日の夜から明け方のことは覚えているのです。

焼夷弾が落ちてきて燃えさかる仙台の街中から山の方に一家で逃げたのですが 赤ん坊だった妹にいつも占領されていた母の背中に その夜はなぜか私が負ぶわれて逃げたこと 怖い状況なのにおかしいのですが 母の背中を独占できて嬉しかったのを覚えています。妹は叔母に負ぶわれ 兄は父に手を引かれて 6人でたどり着いた山の中の農家で 縁側に休ませてもらってご馳走になった茶碗一杯の甘酒が とても甘かったのも覚えています。当時甘い物などまったくありませんでしたから。

その夜 24万発の焼夷弾が仙台の街に落とされ 市街地・住宅地の2万戸が一晩で焼け野原となり1400名が亡くなったといいます。

陸軍第二師団が近かったので自宅あたりは丸焼けだったのですが なぜかうちは焼け残って そこに焼夷弾直撃で亡くなられた父の友人の遺体が畳に乗せられて運ばれてきました。その畳のヘリに白いウジムシがびっしりとついてうごめいていた情景・・・戦争というと 私はこのウジムシを思い出します。このようにまったく普通の市民が ある晩突然 空から落ちてきた爆弾で一瞬のうち亡くなりました。

また食糧難で 庭の雑草を食べるほど飢えていました。スベリヒユやアカザという雑草の名前を覚えました。手足はガリガリに痩せてお腹だけはぷくんと膨らんで私は シリア難民の栄養失調の子どもの写真のような状態だったと 後になって聞かされました。

毎晩空襲警報が鳴り 風呂屋へ行くどころでなく そこへ大量のノミ シラミ 蚊が襲ってきて 痒くて痒くてつける薬もなく掻きこわして体中膿だらけ・・・今の時代では 想像もできないような不衛生そのものの生活を覚えています。

空襲 飢え 不衛生・・・でもそれ以上に苦しかったのが心の面での孤立の恐怖でした。父はキリスト教の牧師でした。キリストを唯一の神と信じる父と母にとって 当時「現人神アラヒトガミ」と崇められ 生きながらにして神であった昭和天皇を礼拝しなければならなかったこの時代は 本当に辛かっただろうと思います。キリスト教会は特高警察の監視が厳しく 信者は教会から遠ざかり 日曜礼拝には特高警察だけが出席しているという異常な光景だったということです。地域の住民からは「耶蘇教の牧師なんか敵性思想にかぶれたアメリカのスパイだ」といわれ 我が家は地域から完全に孤立していました。父が取調べのため特高警察から呼び出され 父が戻ってくるまで母はずっと祈っているというような 不安で重苦しい空気が 私の幼少期を覆っていました。・・・戦争はほんとうにイヤです・・・IMG_0017

(可愛い実をつけた風船カズラ)

キリスト教の牧師の一家6人がどうやってあの戦争の時代を生き残れたのか 今でも時々不思議な気がしますが やがて敗戦となり 日本にもたらされた憲法で「思想信条の自由」「信教の自由」も規定され  父たちは救われました。私も「外国との紛争は武器ではなく 言葉で解決する」という9条の精神に守られて なんとか戦争をしない国で過ごしてこれました。

ところが2012年に「美しい日本を取り戻す」と言って第二次安倍政権が誕生し【戦争が廊下の奥に立っていた】という渡辺白泉の有名な川柳みたいな 軍事的な空気が漂いはじめました。私はひじょうに危機感をもち 安倍政権が言っている取り戻すべき美しい日本て何だろう 力は及ばなくとも日本の近現代史を学ばなければ と思いました。「近現代史は学校で一度も習ったことがないよね」と主婦仲間10人で話し合い 10年くらい前に日本の近現代史を学びはじめました。その会は今も続いているのですが 本・資料・DVD・パソコンなどを頼りに 明治維新はどのように起こったか 明治政府が富国強兵・侵略に傾いていった経過 どのように戦争が起こり アジア各地の戦場でどのようなことが行われたか・・  など 歴史書・戦記・手記・映画などから 目を覆うような 吐き気をもよおすような戦争の実相も学びました。その時 戦争というのは殺人 強盗 放火 強姦など重犯罪の塊なんだと感じさせられました。日本軍の戦争犯罪の犠牲になったアジアの人々は2000万人とも言われています。「美しい日本を取り戻す」というフレーズは 少なくとも私たちの近現代史の学びから理解できませんでした。

そして2015年9月 安保法制が安倍政権によって強行採決された日 私は終電の時間ギリギリまで国会前で見守りました。幾多の命を犠牲にした戦争のことを思い私は「戦争はやめて!」と叫びたい気持ちでした。攻撃されてもいない国との戦争に アメリカと一体化して自衛隊が武器を持って出ていくということなど 一見して明らかな憲法違反であることは 小学生でも理解できるのではないでしょうか? 裁判長、どうぞそこを正してください。  私たちは決して諦めずに この憲法違反を問いつづけます。

畳のヘリにびっしり張りついていたウジムシの話を つい何年か前に2歳年上の兄に話したことがありました。すると兄は「あの時は7月で暑くて遺体の臭いがひどかったから自分はヤマユリを何度も取りに行って たくさん摘んできてその周りに置いた。そして遺体を焼く薪を焼け跡で集めて運ぶ手伝いをした。そうやってご遺体を教会の庭で焼いたんだ」と話してくれました。思い出したくもない空襲から70数年もたって はじめて兄弟でそのことを話しあいました。

日本は平和憲法を今こそ生かして 平和を輸出する国であってほしい・・・戦争を実際に見た一人として つよく願うものです。                             (これは2021年秋の安保法制違憲裁判で市民の証言として話したものです)      (土)

 

 

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 やっと話せた!                                                                      (せせらぎに咲いた真夏のバラ)

1945年8月9日長崎に投下された原爆で 約一ヶ月後の9月6日に私の三番目の姉が亡くなったときのことをお話しします。

今まで あの時は大変だったね と姉妹で話すことはあっても 本当のことは言えないまま 心にたまったものに蓋をして過ごしてきました。今回 四番目の姉といっしょに いろいろ思い出しました。晩年になってから語り部として話すようになった人の気持ちがわかります。

私は長崎郡部の小さな村で 父は役場勤めという家庭の 女の子ばかり7人姉妹の末っ子として育ちました。当時私は6歳でした。母は忙しく働くばかりだったので 私は17歳年上の長姉を 母のように慕っていました。歌がとても上手だった長姉は 師範学校をでて学校の先生になり その後結婚して家をでたときには とても寂しかった。そして原爆で亡くなった三女・幸子姉も 長姉と同じように優しくて歌が上手で 長姉に憧れて学校の先生になりたいと思っていました。手が器用で洋裁和裁をする家政学校にしばらく通っていましたが やはり先生になりたいと言って長崎の師範学校に入り直し 1945年の夏には「来春から学校の先生になれる!」と希望に胸をふくらませていたところでした。

敗戦まぢかで 師範学校の生徒は勉強どころではなく勤労動員の毎日で 幸子姉は長崎の三菱軍需工場に兵器作りにかり出されていました。ほかの生徒は休みだったのに 体格がよいため選ばれて 8月9日は出勤していたそうです。

三菱の地下壕の工場で働いているときに原爆が投下されました・・・爆風で飛ばされたのか 気を失って 気づいたら芋畑で倒れていたそうです。頭の上を人が這っていた  喉が渇いてたまらず流れていた水を呑んだ・・・と。

学校から家に伝令がきて 両親は長崎に駆けつけ探しまわりましたが 多くの死体を運び出しているなか どうしても見つけだすことができず その日は帰ってきました。

幸子姉は芋畑から寄宿舎になっていたお寺にたどり着き 夜を明かし 次に日汽車を乗り継いでか?わからないが 夕方家にひとりでたどり着きました。「帰ってきたー!」「よかった よかった!」とみんな泣いて迎えました。姉は当時の制服 作務衣のようなモンペ服と 足には草履と下駄を片方ずつ履いて ヤケドも傷もひとつないきれいな姿でした。

長崎に二日目も探しにいっていた両親は 必死で探しても見つからず あきらめて帰ってきて姉を見て みんなで喜びあいました。

幸子姉は怪我もしていないしどこも悪く見えないのに 家に着いた翌々日から具合が悪くなりはじめました。被曝のあと喉の渇きにたまらず呑んだ水で内臓がやられたようです。

近所に被爆時に全身ヤケドをして 赤チンだらけで帰ってきた男の人がいて その人の方が姉よりずっと重傷に見えました。でも姉はどうしても力が出ない感じで 母はそれを見かねて「川に洗濯にでも行ってきなさい 元気が出るから」と言いました。私たちはいつも泳ぎにいく川に行って 洗濯したりおしゃべりしたり・・・IMG_0013

でも姉は だる~い と言って家に帰ると それっきりもう床に伏せて動けなくなりました。内臓が放射能にやられて すべてが腐ってしまったかのよう 意識がもうろうとしてきました。髪の毛がすごい勢いで抜けていきました。髪を整えてあげようとすると気がついて「(来春から)学校の先生になるから 髪には触らないで」と言って 抜ける毛をおさえました。意識がなくなったり戻ったり・・・気分がいいときは歌を口ずさんだりもしました。

医者は毎日往診してくれましたが なんの病気かもわからず何をしていいのかもわからず 母もおろおろしてしまい 祖母がずっと姉の枕元に座っていました。食事はもう受けつけず 畑の黄色いスイカをつぶしてスプーンで一口入れると 口の中はすっかり腫れあがり皮むけの状態でした。髪の毛は抜けおち 上から下から腐ったものが出て 病名もナシ。

亡くなる前には ときどき「信号が!」「光が!」と布団からパッと起きあがり 姉にとってピカドンの光の印象がどんなにか強かったのだと思いました。

「仏様に参りたい 次の部屋まで連れてって!」と言って仏様に参りました。父には「うちは女の子ばかりで 御国のためになれないって言ってたけど 私が三菱の兵器工場で働いてたんだから うちもお国のためになったでしょ」と。父は泣いて なにも言い切らなかった。もう誰も なにもしてあげることはできませんでした。 

幸子姉は戦没者ということになり 戦死した兵隊さんたちといっしょに 村で葬式をあげてくれました。師範学校の同級生たちは 姉が体格がいいと言われて選ばれ 自分たちの身代わりになって当日出勤してくれたことを ずっと長く心にとめて 闘病中も毎日 また忌日には50回忌まで欠かさずにお参りに来てくれました。

原爆によって 長崎は草木も生えないだろうというほどに壊され 姉は教師になるという夢をうばわれました・・・長崎の地にキョウチクトウはふたたび咲きはじめたけど・・・姉は帰ってきません。たったひとつの命だけど 姉を想うと遠い6歳の記憶がよみがえり 胸が張り裂けそうになります。                                  (KH)

 

子供の頃の戦争のこと                  (せせらぎ遊歩道のサルスベリ)

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カーテンをあけて 今日一日元気で過ごせるよう体内時計を整える。百日紅サルスベリの花が少しあざやかになってきました。なんと平和な朝なのか・・・と幸せを感じる一方 ロシアに侵略されたウクライナは 戦争のため人々や子どもたちは戦火にあい 平安な生活を奪われています。一日も早く終わらせて と祈るばかりです。

80年前 私が子どもの頃 日本もアメリカと戦争をはじめてしまったことを忘れることはできません。「欲しがりません勝つまでは」の合言葉 なんといっても食べるものは豆カス たくさん収穫できると植えられ見たこともないような大きさで美味しくないサツマイモ などがお米の代わりに配給され フスマのような団子入りスイトンをすすりながら 飢えをしのいだ時代でした。

戦火は激しくなり 空襲警報が出て 部屋の明かりを暗くしたり 防空壕に避難したり 生きた心地のしない毎日でした。ある夜逃げる途中 私は家族とはなれてしまい 夜でも真昼のように明るく照らす敵機の下に身をかがめて 防空壕に逃げ込んだ怖いことも思い出します。近くの寮に焼夷弾が落とされて 青年が何人も亡くなりました。 

そんななか小学校の3年以上の生徒は疎開するようになりました。田舎に親戚のない私はやむなく集団疎開することになり布団を担いで 場所は豆腐料理が有名な大山へ行きました。ノミとシラミに苦しめられた生活しか憶えていません。いま考えても あまりに不衛生なことで 戦後になってもしばらく布団から退治できず困りました。 1644326406468-qx1ngqFbhE

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(大山にある川崎学童疎開児の記念像)             私の生家は焼かれた とうちから知らせがきました。火の粉が飛びちるなか 藁葺き屋根の家は焼け落ちてしまったと。近所に兵隊さんが駐留していましたので 当座必要なものを運び出してくれて 助かったと言ってました。

家族は無事でしたが 幼い私がひとり生き残ってしまったら忍びない と思ったのか 敗戦を待たず理由を見つけて8歳上の姉が大山に迎えにきました。川崎大師の駅に降りた時 子どもの私は 自分が住んでいた家の方向はどちらかわからないほど いちめん焼け野原になって 驚くばかりでした。

戦争は絶対にしてはいけないのです。戦後 日本には平和憲法ができ 9条により戦争はしないという宝があります。しかし今 戦争を知らない政治家により この宝をこわそうとしている動きが見えます。   私のごく小さな体験を記してみました。             (三)IMG_0001

 私の戦争

あの土曜日にきた                                    あの日は土曜日でした。国民学校2年生の私たちは 帰り仕度をしていました。その時警戒警報が鳴りひびきました・・・が 私たちはちっとも慌てません。なぜなら毎日ラジオが報じる日本の戦況に安心していたからです。毎朝 軍艦マーチから勇ましくはじまる大本営発表のニュースでは 日本は連戦連勝で戦果はすばらしく 世界平和を目指して驀進中とのことでした。

土曜日のあの日 学校から帰宅すると 通信兵志願を目指して勉強中の従兄が家に来ていました。母は奮発してカレーを作って 私の帰りを待っていてくれました。そろそろ食料事情も厳しくなってきた頃で 私はおいしいカレーに大満足して 幸せ~~と大の字に寝ころがったり・・・と とても平和でした。そして何気なく縁側の廊下から空を見上げると 低空で飛んできた飛行機から ランドセルの中の筆箱より少し大きめの物体が落ちてきたのでした。なんの音もしなかったのに 数分後に家が揺れ 家がつぶれるのではないかと思うほどの大きな音がしました。

私と従兄はなにが起きたのかわからず その場にへたりこみました。近所のお母さんたちは外へ出て不安そうでしたが 話題は棚の物が落ちたというような話だけでした。警防団の人たちがメガホンで 家の中に入るよう叫んでいました。

急に外がざわつき 走る下駄の音 なにか叫んで走る人たち・・・何か恐ろしいことが起きているのではと 従兄は私の手を握り外へ飛びだしました。母も妹を背負って 近所の人たちが走る通りへ出ていきました。

そこで目にしたのは上半身血だらけの人 顔から頭から血が流れている人 手拭や風呂敷を包帯がわりにしている人 服の背中が裂けて血だか肉だかがベットリ 上半身のあらゆるところがそのような人々。その人たちはみな無言で どこを見ているのかわからないうつろな目 痛そうな顔もしていません。その数30名 いや50名と増え その行列は日本鋼管病院を目指して歩いているようでした。

日本は勝つと信じて普通に生活していた私にとって 戦争はあの土曜日からはじまったのでした。

それ以後 各家庭に防空壕を作ることが命じられました。でも住んでいた所(現在の川崎区)は埋め立て地が多いので 1メートルも掘れば水が湧きます。命令なので掘りましたが 私たち家族は自宅の押入れの上段に布団を積みあげ 下段を防空壕のかわりにしました。今思えば なんの役にも立たないのですが。

このような時でも 学校に行くのは楽しかった・・・戦争を忘れられたから。なのに毎日級友が2人 3人といなくなるのです。最初 先生は機銃掃射で亡くなったことを伝え 「敵機がきたら物陰に隠れて身を守るように」と話したのですが まもなくその話はしなくなりました。私たち小国民の戦意をそぐような話は禁じられたのではないかと思います。そのころからB29の飛来しない日はなく 午前 午後 夜と空襲のサイレンは鳴りっぱなしになりました。

そのころまだ2歳にならない妹が百日咳にかかり これといった薬もなく入院ということになり 母も付き添いました。私は急遽 群馬の母の実家に疎開することになりました。  田舎は食べるものもあり 空襲のサイレンは鳴りませんでしたが 8歳だった私は「川崎で母も妹も死んでしまうのではないか」と心配でたまらず 夕方になると涙が止まりませんでした。 

自分は川崎の戦火から逃れてきたけど あの土曜日に川崎の家で見た 上半身に怪我をした人たちはどうしただろうか。なぜみな上半身だけ怪我をしたのだろう? きっとあの人たちも私と同様 日本に爆弾など落ちるとは思っていなかった。全国民が大本営発表を信じていた。爆弾が落ちてきたとき ”あれは 何だろう” と立って見ていたのではないだろうか? 立っていたために爆風と飛んできた瓦礫で 上半身の怪我となったのではないだろうか?                   あの時代 私たちは大本営の情報を信じて生きるしかなかったのです。

 栄養失調と皮膚病(カイセン)で死んだ男の子                       私が田舎に疎開したあと 続々と疎開者は増えてきました。退院した妹を連れて母もやってきました。私たちは(親や兄弟を頼っての)縁故疎開だったので 貧しくとも住む所はありました。ところが住む所がなくて 山羊小屋に疎開してきた人がいたのです。

田舎の学校は正門はありましたが 校庭にはどこからでも入れたので 私はよく桑畑を走りぬけて学校に入りました。桑畑のところに山羊小屋があって 2匹の山羊がいました。ある日その山羊がいなくなり 小屋に床が張られ 入り口にムシロが吊るされ 人が住みはじめたのです。私はびっくりして 母に山羊小屋のことを話すと 母は「可哀そうに親戚もなく 遠いツテを頼りにここへ来たのだろう」と。朝は急ぐので桑畑と小屋の前をとおって学校へ行きましたが 帰りはその小屋の住人と会うのははばかられて 正門から帰りました。

数ヶ月たつと 住人は母親と男の子だということがわかりました。男の子は病気のため学校には来ませんでした。私は気になって ある日桑の実を摘んで両手に持ち おそるおそるムシロから顔を入れました。「桑の実だよ 甘いよ 食べて!」と はじめてその子の顔を見て びっくりしました。目は落ちくぼみ 頭や顔は皮膚病の白い軟膏が塗られて とても子どもの顔とは思えませんでした。

それからはおやつにもらった干し芋を 一つは残してその子に持っていき ザクロが色づくと「取ってはいけません」と札を下げ 熟れたらその子に持っていきました 私も食べたかったけど我慢して・・・

そしてある雪の日 ムシロがはずされ 気づくともう人は住んでいませんでした。母に話すと「死んだそうだよ 結核も患っていたので火葬にして母さんと東京に帰った。可哀そうだったねー」と。

戦地に行って戦って死ぬだけでなく 国内でこのようにして死ぬ人も大勢いたと思います。私は『火垂るの墓』を見ることができません 飢えても健気に妹を守るお兄ちゃんに 涙してしまうからです。戦争はほんとうにむごく なにも得るものはありません。

80年近く前に経験した戦争のことを思い出して書いてみました。反省と教訓が自分のなかにあります。それは大本営発表を信じきっていたことです 情報は極端に限られていました。

今は だれでも・どこからでも・どんな情報でも手に入れることができる時代。だから私たちは 真実はなにか・どの情報が本物か・どう行動するか を自分の頭で考える力を養う必要があると思います。自分の頭で考えて ふたたびあのような戦争を起こさない力になりたい とつよく思います。                                  (前)IMG_0008                                     (サルスベリの幹の樹皮がはがれ落ち ツルツルの木肌が出てきました。)

cocoせせらぎホームページ       2022・8・1

*共生 *共助 *相互扶助 *助け合い *利他***** その2      2022・8・1

『思いがけず利他』を読んで

7月のホームページで cocoせせらぎはほんとに終の住処になれるだろうか・・・だれかの看取りを迎えられるほどに おたがい助けあう仲間になれるだろうか・・・という以前からのモヤモヤを書いてみたのですが 最後にいきついたのが『思いがけず利他』という本でした。

この本が私のモヤモヤとつながるかな? と思いつつ 買ってみたのですが。。。

私は利他という言葉に 前回も書いたようにオナカのあたりがモゾモゾしてくるような 一種気恥ずかしさを感じており この本の広告をはじめて見たとき こんなタイトルの本が日本に出てきたんだー と正直びっくりしました。この言葉を知らなかったわけではないけど 今の日本の日常会話では使わないかなーと。

この本を書かれた中島岳志さんは東京工業大学の先生。同大学の「未来の人類研究センター」というところで 9名の先生方が “利他プロジェクト”を共同で進め その過程で書かれた本 ということです。未来の人類にとって 利他ってどんな意味をもつのだろうか?

この先生方は 利他に新しい時代の予兆があるのではないか・・・とプロジェクトを立ち上げたそうです。「自己責任論がはびこり 人間を生産性によって価値づけるこの社会を打破する契機が 利他には含まれている」と。

利他は読んで字のごとく「他に(を)利する行為」 利己的な行為の反対語。中島先生は これをどんどんやりましょう! と勧めているのかな と思ったら全然そうではなく よく読んでいくと私が感じていた「利他」に対する気恥ずかしさの原因のような 微妙なポイントから書きはじめられていました。

「他に利するというと ボランティア活動とか寄付行為 相手がなにか困っている時に援助・ケアなどの手を差しのべる・・・などが挙げられますが 利他的行為をする人に対して  ”意識高い系”  “偽善者” と言いたくなることがあります。

また ”善い人” というセルフイメージを得たくて の利己的行為なのでは??と言いたくなることもあります。

もう一つ 利他行為の押しつけがましさが ときに相手へのプレッシャーとなって ” お返しをしなければ “ という負債感や あげる人・もらう人という上下関係 もしくは支配・被支配の関係ができあがっていくこともある。」

中島先生は今の日本を見渡してこのように分析し これらを利己的な利他と呼びました。「このような利己的な利他によっては ほんとうの利他の循環は起きない。利己的なメッセージ付きの贈り物は やはり不愉快です。これがいずれ私に利益をもたらしますように と暗に言っているような行為を受け取っても 利他の喜びはおきません」と。

では人のためになにかするとき 偽善とか負債・支配・利己性などをこえて 本当の利他にたどり着くには? 中島先生は利他の本質には「思いがけなさ」があると考えました。落語「文七元結」の博打にはまった腕のいい職人(根っからの善人でも   模範的な人間でもない 困り者の長兵衛さん)が人助けをする話や 親鸞の言葉 ヒンディー語の与格構文 染色・陶芸・料理の世界などを例にひいて「思いがけなさ」を説明しています。IMG_0001

(せせらぎの3階から見た6月の朝焼け)

偶然通りかかって 身が動いてしまって ついやっちまった・・・意図したのではない 意思の外側からやってくる不可抗力な業 どうしようもないもの 向こうからやってくる行為・・・それが利他だというのです。

向こうからやってくる・・・褒められたいからやるのでなく ついやっちまったの世界。これを利他とすると ついやっちまった行為でも 周囲はやはり褒められたいからだと思うかもしれない。「ここまできて見えてくるのは ある行為が利他的になるか否かは 事後的にしかわからないということです。与え手が利他だと思ってやった行為であっても 受け手にとってネガティブな行為であれば ありがた迷惑というものです。つまり利他は与えた時に発生するのではなく 受け取られた時にこそ発生するのです。その行為が利他的なものとして受け取られたときにこそ 利他が生まれるのです。」

ここを読んだとき 私はハッとわかりました。自分が利他と思って ついなにか手助け的なことをやっちまったとき その時には判断できないけど 受け手が後でそれを利他だと思ってくれたら それは利他だ。相手が利他と思わない可能性もあるけど 利己:利他の確率は半々! 判断は相手にまかせて「人の目を気にしたりせずに いいと思ったことはやればいいんだ」と私なりの理解をしました。

前回「世界人助け指数」で日本は最下位だったと書きましたが つまりこの国には人助けのいい受け手がいない 人の好意をうまく受け取れる人が少ないということかな。。。

いまの日本で援助の与え手になることは断然簡単だが 受け手になることは断然ツライ と私自身も感じていて・・・つまり私もうまく親切な行為の受け手になれない人間なのだと自覚するのですが・・・その答えもここに見つけることができました。

「利他は与えた時に発生するのではなく 受け取られた時にこそ発生する」のだったら 相手の親切な行為をありがとうと受け取ることこそ 利他なんじゃないか・・・と。

看取りのシーンを想像してみて 仲間がもし援助してくれたら ただただ「ありがとう」と言って受けとれるか?? このことを次に書いてみたいと思います。        (土)

cocoせせらぎホームページ  2022・7・21

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土用の丑の日

せせらぎの夕食は各スタッフさんがそれぞれ腕をふるってくださって 満足していますが

土用の丑の日は ちょっと贅沢にウナギにしようと いつ頃からか慣例になっています。

物価高の今年は はたして国産の美味しいウナギを食べることができるか? 入居者が10人揃ったのだし 是非!と思い 食材費を捻出しました。

スタッフのWさんは 何軒ものお店をまわって これぞというウナギを探してくださり 準備に余念がありませんでした。

「器も味の一部ね」と 百均でさがしてきた鰻屋さんそっくりの蓋つきの黒い器で「鰻重」が食卓に並び Wさんのユーモア溢れる演出に みな大喜びでした。

ふわ~っとしたウナギの味は格別で Wさんに感謝です。

これも平和であればこそですね。                   (三) 

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鰻重の写真を撮る・・・などと思いつく暇もなくパクついてしまいました すばらしい鰻重をお見せできなくて残念!        これはWさんのある日のデザートです。

cooせせらぎホームページ  2022・7・20

cocoせせらぎホームページ 2022・7・20

*共生 *共助 *相互扶助 *助け合い *利他* * * * * *  

こうやって言葉を並べてみると なぜかオナカのあたりがもぞもぞしてくるような居ごこちの悪さを感じるかもしれません。今この国で これらの言葉は遠慮がちに存在しています。大きい声で言えないので 小声でちょっとついでに言ったみた・・・みたいな後ろめたさを感じながら言う言葉?といったらいいでしょうか。                             なぜそうなってしまったのだろう? IMG_0005

その答えを 6月半ばの新聞で見つけました。日本は「世界人助け指数」という国別ランキングで 114の国・地域の中で最下位にあるという記事(英国の慈善機関チャリティーズ・エイド財団調査2022)。世界中で一番 助け合いの下手な国民らしいです。              政治学者の中島岳志さんは 「この調査結果は 自己責任論・小さな政府論(緊縮財政と自助努力論)・生活保護バッシングなどにいきついた戦後民主主義のあだ花ではないか」と解説していました。

今回「共生」などのちょっとややこしい言葉をとりあげたのは 今わたしたちが住んでいるcocoせせらぎが これらの言葉と真正面に向き合わなければならないのかな・・・というタイミングにさしかかっていると思うからです。なかなか荷の重いテーマなので 1回ではまとめきれず2回、3回になるかもしれません。IMG_0019

現在のcocoせせらぎは 10人全員が健康に大きな問題がなく それぞれ自由な時間を楽しみ 夕食のときに集まってお互い「元気だね」と確認しあう そんな生活が続いています。これがずーっと続くといいね と言っていますがそんな訳はなく かならず5年たたないうちにこのバランスが崩れることは みなの暗黙の合意です。自分が一番のケースになるかも とみんな自覚しています。

その時がきたら 病気の種類 重篤さ 一人一人の考え方によって

①いろいろ面倒なことは考えないで 介護付き有料老人ホームなどに移る という人

②介護ヘルパーさんやまわりの人たちの助けを借りながら 最後まで馴れ親しんだcocoせせらぎで過ごしたい人

の二つに分かれると思います。

①を選ぶ人のために 現在この周辺にある施設の見学ツアーを計画していて いざという時の心づもりができるようにしたいね と言っています。

②のケースを選んだとき 共生 共助 相互扶助 助け合い 利他(利己の対義語)などの言葉がテーマとして立ちあがってくるわけです。IMG_0020

cocoせせらぎで最後まで過ごしたいと望んだ場合 どんな場面が想像できるだろうか・・・認知症かもしれない 重篤な内臓疾患かもしれない 大怪我などの後遺症 もしくは老衰など 私たちにとって未知の世界・・・たぶん訪問医療のお医者さんとも相談しながら 訪問看護・訪問介護の助けを最大限お願いして過ごすことになるでしょう。

さいわいにも歩いて10分のところに地域医療に熱心な先生がおられ 重い病気の場合 月極契約で24時間訪問医療を受けることができます ラッキーです **                                                           歩いて15分のところにcocoせせらぎ開設以来ずっと相談にのってくださっている非常に良心的な介護事業所があり cocoせせらぎならヘルパー派遣で十分看取りまでできる と言っていただいています   超ラッキーです***

このようにラッキーが重なっているcocoせせらぎですが やはり医療と介護の隙間を埋めなければならない時間が出てくる。小さな小さな隙間 でもそこへのヘルプがなければ居つづけることが不可能になるような大事な隙間・・・それをどうやって埋めたらいいでしょう。

有償ボランティアであるスタッフさんから有料サポートを受けることができるかもしれない ライフサポーターさんの勤務時間内ならお願いできることもあるかもしれない しかしおたがいの日常を一番よく知っていて 精神的にも頼りになれるのが仲間ではないかと気づきます。このとき私たちは「共生」とか「助け合い」という言葉に向き合うことになります。

今でももちろん “自立と共生” が看板のcocoせせらぎ お茶を入れてもらう・ご飯をよそってもらう・花を生けてもらう・戸締りを気にしてくれる・親しい同士で病院につきそう などなど 小さな仕事を自主的に分け合いながら 助け合いながら生活しています。             しかし元気なときに助け合うのと 人生の最終局面の看取りに近い時間を共有するのでは だいぶちがうかもしれない。                                  一番のちがいは 人生最後の場面ではおたがいに助け合うのでなく 助ける行為をする人とそれを受け取る人にキッパリ分けられ 立場が逆転することはなく いつかお返し! ということも叶わないということです。

また私自身の想像では 助ける行為をする人になるのは断然たやすく 受け手になることは断然つらい と思うのです。そんなことをつらつら考えていたとき『思いがけず利他』という本に出会いました。利他とはなにか・・・ そのことについては つぎの機会に。

cocoせせらぎで看取りは可能か・・・私たちは挑戦しつづけていきたいと思っています。                            (土)IMG_0021

せせらぎ遊歩道で草花の世話をしていたときお知り合いになった女性からサボテンをいただきました。7月はじめのある日 見る間に花の茎が立ちあがり次の日に咲いて1日で咲き終わりました。

 

 

cocoせせらぎ ホームページ  2022・6・20

ミニ菜園となりのミニミニ菜園  

 

食堂の前にはボランティアK氏によるミニ菜園があり、年間を通して多種類の野菜が育っています。

春先の小カブにはじまり、今はキューリ,ナス、トマト,ピーマン、枝豆、ゴーヤ、里芋などが少しづつ実り、また葉を茂らせています。冬にはみごとなキャベツも収穫できるのです。

収穫野菜は入居者の夕食にスタッフの方が活用、もぎたて超新鮮の季節の味で食卓を賑わせてくれています。

けっして広いとはいえない菜園が効率よく、眺めても楽しく美しく、さまざまな話題も提供してくれています。

その素晴らしい菜園の横の、大きさにして畳1/3畳くらいのミニミニスペースを、今回使わせてもらえることになりました。

やはり食卓を賑わせてくれる作物がよいと考え、さっそくTさんに自転車を借りて元住吉商店街まで出かけ、パセリと青シソの苗と土,肥料を購入しました。

一つのポットに数本の苗が生えていたので、根分けをして植えてみました。

よくばりすぎたのでしょうかパセリはしょんぼりして息絶え絶えですが、青シソは私の多大な期待にこたえてくれ、順調に育っています。

そうそう、庭の隅で冷遇されていたヒョロヒョロニラも植え替えました。何回も収穫できるとのこと 楽しみです。

青シソは一度収穫できました,きざんで薬味に変身,いい香りでした。IMG_0009

初収穫にバンザイ✌️✌️

久しぶりに土に触れて気持ちが和みました。

パセリ苗を猫の額の裏庭に 梅雨の合間に一仕事せん       (石)

 

せせらぎ遊歩道で咲いたクレオパトラというアジサイです。IMG_0010

 

cocoせせらぎホームページ      2022・6・6

cocoせせらぎホームページ    2022・6・6

せせらぎ遊歩道の ”なつかしい草花” 苑 

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「苑」といっても私たちのつくった苑は 幅1~2メートル 長さが15メートルくらいの遊歩道沿いの細長い小さな空き地です。そこに昔から日本の街中や野原に咲いていたなつかしい草花を植えていこうと思いたったのは 今年の春。 IMG_0075

ことの発端は私のスミレ愛    せせらぎに移ったときにも大好きなスミレを前の家から持ってきて ベランダのプランターで咲かせていました。せせらぎの裏庭にも植えてみたのですが 土が合わないのかすぐ消えてしまいます なかなか気むずかし屋のスミレ。

部屋のベランダで大繁殖したスミレの株を 去年の秋に思い切ってcocoせせらぎの目の前の遊歩道脇に植えてみました。朝晩水やりを欠かさず 寒い冬も越して今年の春 なんと濃紫のスミレの小花が うつむき加減に葉の陰にかくれるように咲いているのを見つけたのです! いっしょに植えたタツナミソウも白い花を小波のように揺らし ジュウニヒトエも元気に花穂をだしました。

スミレはここが気に入ったのかな? ということは他の野草もこの空き地で育つかな? よし  ”なつかしい草花” 苑を試してみよう!                                                                                                            ということで春のあいだ毎日 せっせとせせらぎの裏庭から遊歩道脇へ いろんな草花を移していきました。ベランダからも移しました 80を過ぎて私にもし何かあったときにベランダに訳のわからない鉢が並んでいたら とても迷惑ですから・・・ノコンギク ワスレナグサ ホタルブクロなど どんどん。

これまでも目の前の遊歩道脇が荒れているなぁと気にはなっていたのですが なにやら忙しく せせらぎ入居6年目 念願の “ 趣味の園芸 “ をはじめることになりました。           花屋にならんだチューリップ ユリ カーネーションなど 色鮮やかな栽培種の花ももちろんきれいですが 野山や街中でそっと咲く野草の美しさ! 土と空気と水と太陽の光に守られて いちばん合った場所で一所懸命咲いている山野草に出会うと 何か語りかけてくるような・・・

「花は 見える世界と見えない世界をつなぐ 世界で一番かんたんな魔法です。すべての花や木に妖精はいます。」これは最近出版された『花を飾ると 神舞い降りる』という本の広告コピー(本は買っていないのですが~~笑)。たしかに遊歩道で咲きはじめたホタルブクロなどを見ても 色も形も不思議! 神の手による魔法!としか思えません。その花の最高の一瞬を切り取って花瓶にさした一輪の野の花には まさに神が舞い降りて 見る者にエネルギーを与えてくれます。

初夏に向けて「季節ごとに花が咲くといいな~」とか「オジギソウなんかあったら子どもも楽しむかもしれない」などと言っているうちに “苑” がだんだん広がっていきました。それを見てカフェ・ボランティアの方が「私は民生委員をしていたから ここの会長さんをよく知っているのよ。その方に一言 cocoせせらぎが遊歩道に植物を植えるから と断っておいたほうがいいかも・・・」と言って すぐに電話をかけてくださいました。「昔なつかしい花を植えるなら 散歩で通る人も楽しめるし いいことだ」と会長さんが言われたとのこと。ありがとうございます! 草花苑がんばります!

会長さんが言われるように 散歩しながら草花を愛でていく人の多いこと 遊歩道にしゃ がみ込んで作業していると「これはなんていう花?」「同じのが家にあるんだけど名前がわからなくて・・・」など声をかけて行かれます。そうだ植物のそばに名前をつけたらもっと楽しいかも ということでまたカフェ・ボランティアさんに相談すると 竹林からちょうどいい大きさに切った竹IMG_0004の名札を数十枚 用意してくださいました。それに防腐剤やニスを塗って 写経の先生である我がライフサポーターさんにすらすらときれいな字で 草花の名前を書いてもらいました。名前をつけるとますます立ち寄って見ていかれる方が増えました。

「何やってるの?」と小学生の男の子。「お花が喉が乾いたって言ってるから お水あげてるのよ」というと「僕もやりたーい!」と長柄ヒシャクで江川の水をいっぱいに汲んでヨタヨタしながら水をやってくれます。                                 同年輩の女性が「これは何色のスミレ?」と聞かれるので 濃い紫だと言うと「うちの庭に薄紫のスミレがいっぱい増えてるの。要りますか?」「嬉しい!ぜひ分けてください。」すると その日のうちに大きな株を二つ持ってきてくださったり・・・                   楽しい出会いがたくさん。そしてうしろの江川せせらぎではカモの子育て時期で コガモたちがお母さんを呼ぶピーピーという鳴き声が聞こえてきます。                   まるで地上の天国 花など相手にしていられる平和に感謝。          (土)

 

cocoせせらぎホームページ  2022・5・5

夕食後の散歩を楽しんでいます!!

昨年の夏ころから数人でせせらぎ遊歩道の夕方散歩を始めました。              きっかけは、誰ともなく夕陽が綺麗、茜色の雲の変化が素晴らしいという声があがり、気温も下がり過ごしやすいので夕食後にたまには歩くのはどうかなと散歩グループができたのでした。

入日が薄れて星や月が見え、涼風が吹くのは本当に気持ちがいいものです。スタッフさんによる手作りの夕食をいただいた後の腹ごなしにもなっていますし、運動不足解消の一助にも有効です。

せせらぎの流れは川崎市が下水道を処理して矢上川に流しているのですが、かなりきれいです。小魚や小さなザリガニもいるようで、先日は白鷺がザリガニを捕まえて食べているのを見かけましたし、土日には親子連れが網で小魚を捕まえています。何がいるのと聞くとグッピーとのことにビックリです。                                       遊歩道に沿って街灯が灯り、自転車走行も禁止になっているので私たちも安心して歩くことができます。

夜の散歩の楽しみは、せせらぎの両岸に植えられた草木の変化を愛でることでしょうか。歩きはじめた夏は木々の緑が生い茂り、この木は何だろうとああでもないこうでもないと推測していたのですが、花の季節になると楽しみは倍々ゲームになりました。季節ごとに咲く花は衰えつつある私たちの五感を刺激してくれています。

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圧巻はやはり春、せせらぎの春一番は河津桜でしょうか。固い蕾がピンク色になり一斉に咲きだすさまは、夜間は幻想的です。白梅紅梅,辛夷、桃、そして染井吉野と次から次へと咲き競って私たちを楽しませてくれます。名前がわからないものも多くあります。どれだけの木があるのか,ネームプレートが付いていたらいいのにねーといつも話しています。

木々の変化に目を奪われますが、近隣の住民がたくさんの草花のお世話をしておられますので、 それを見るのも楽しみの一つです。個性あるミニ花壇作りをしているグループもあります。小さな花に目をとめているうち野草の花の可憐さにも気付きました。昔は原っぱでよく見かけた花も生息地が減って見なくなったなーと懐かしさが込みあげてきます。

せせらぎ疏水の春の一大イベントはカルガモの誕生と成長を日々身近で見られることです。今年はすでに三組が誕生しています。それぞれ十数羽の雛が誕生しますが自然界の厳しい生存競争を勝ちぬくのは大変。でもその成長を毎朝夜明け前から毎夕暗くなるまで見守る人たちがいるのは驚きです。人間の生活地域で生まれた鴨は人に守ってもらってるのを知ってるようにのんびりしています。私たちお散歩グループも毎夕の出会いを楽しんだり、見守り隊のお話を聞いたりして成長を見守っています。母鴨が羽を膨らませて眠る小鴨を守るさまはいろいろ考えさせられます。

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歩いてちょっとお喋りもしての散歩を入居者仲間は暖かく見守ってくれています。時には「不良少女! 夜遊びはいけないよ」とか「徘徊とまちがえられないように」などという言葉とともに送り出してもらっています。

 厳寒期はお休みしたもののほぼ毎日歩いているので『継続は力』とこれからも続けたいと思っています。                       (石)

cocoせせらぎホームページ    2022・4・20

cocoせせらぎホームページ    2022・4・20

佐々木 炎先生 講演(第2回) 『 認知症の理解 』    

昨年秋に第1回目『共生とは?』を話していただいた頃は せせらぎ遊歩道にサクラの木の葉がたくさん散っていました。うまく依存してこそ自立が可能だということ 依存する仲間の大切さ うまく共生するにはどのような関係がいいか 笑顔や挨拶を交わすことの大切さ などなどたくさん学びました。

では次に 共生が難しくなるんじゃないかと思われる認知症について学んでいかなければ ということで第2回目・・・ せせらぎ前の歩道にサクラの花ふぶきが散る中 ふたたび佐々木先生に来ていただきました。

IMG_0005 「みなさん 自分は認知症の心配はないと思っている方 手を挙げてみてください」と先生が切り出されました。みんな あれっどうだろう と顔を見合わせました。

私たちは認知症と診断される25年も前から 脳萎縮やアミロイドβの蓄積などによって進行がはじまっているそうです。せせらぎ入居者の平均年齢80~84歳の枠でみると 25~30パーセント つまり約3人に一人は認知症という統計を示されました。

「この社会は認知機能がしっかりしていないと認められない社会になってしまっていますが 実は認知症になることが当たり前なんだ ということを前提に社会を考えていかなければならない時がきています。老いに向かう人間として 認知症は人生の終末に現れる自然で正常なできごとです。時間も少しずつずれて 場所もずれていきながら それを超えた世界に旅立っていくのが人間の姿です。

 

認知症の危険因子としてあげられるもの 

・遺伝的素因

・教育期間の短さ(これは単に学歴ではなく知識・情報を得て自分で考える力。寿命も学

歴とお金に関係していると言われているが 認知症もそうらしい)

・難聴(難聴によるリスクは高く 通常の2倍から3倍。聴覚刺激が少なくなると神経活

動が低下し 脳の構造変化をもたらす)

・高血圧  糖尿病  肥満  喫煙  うつ など

・運動不足

・社会的孤立(孤独度が高い人が認知症になるリスクは 低い人の2倍以上)

・大気汚染  など

 

認知症を予防するには 

難聴対策・食事・運動・認知課題(歌う しりとり 計算)・孤立しない、などがあげられます。また運動しながら認知課題をやる など二つを組み合わせると もっと効果が上がると言われています。

IMG_0014                         せせらぎの庭に咲いた春の花てんこもり

せせらぎのみなさんでやれること それは

①笑顔を向けあい

②コミュニケーションをとることでおたがい安

心感を抱き

③褒めあうことで脳が活性化し

④それぞれ役割をもつことで生きがいを感じ

⑤ひとつひとつ成功体験を積み重ねていく

そんな共同体を作っていくことではないでしょうか。①から⑤を一気にできるのが 例えば『一緒にご飯を作る 一緒に掃除をする』というようなことです。」

先生は「赤ちゃんは1日に何回笑うでしょう?」とクイズを出され 50回? 100回?と考えているうちに「なんと400回です! お母さんが笑うから赤ちゃんも笑う 赤ちゃんが笑うからお母さんも笑う というようにお互い関係を深めています。一日笑うことがなくても口角を上げるだけで脳は活性化しているそうです」と特に①の笑顔の大切さを話されました。そして③の褒めあうことについて「誰かに褒めてもらうと 白い粉に負けないくらいのドーパミンが脳の中で出て よし、やるぞ!という気になります」と。

はっきりした声で 分かりやすい言葉で ユーモアたっぷりの「認知症理解最前線」のお話を一時間あまり・・・ 私たちは佐々木先生のお話のあいだ 赤ちゃんの1日400回の笑顔に負けないぐらい笑いました。

先生との一問一答

「母が最後のころ認知症のようになって 私のことを「お母ちゃん」と呼ぶことがありました。」

ーーーお母さんというのは安心の代名詞のようなもので たぶんとても安心した状況だったのだと思いますね。

「また私たち3、4人で夕食後 この川のところをおしゃべりしながら散歩しています。週に2回 体操もしています。体操の後 you tubeで脳トレも。

ーーー散歩 いいですねー! ただ徘徊にならないようにお願いしますよ(笑)。徘徊といって も 最近はすぐに見つかります。それだけ社会の認知症に対するネットワークの網目が密になってきていますね。

「姉が今 かなり分からなくなっている状態で 私もそのようになるのではと覚悟しています。」

「どのようになったら認知症を心配しなければならなのか・・・病院へ行くのはいやです。認知症と言われるかと とても不安です。」                         「え、あなたはそんな感じ全然ないと思うけど。どんな時そう思うの?」

ーーーそこのお二人はお互いに見守りあっていけば? いい関係じゃないですか。      「じゃ いっしょにがんばりましょう!」

「80代の30%が認知症というお話でしたが それは人の数じゃなくて 80代の個人の脳の中の30%が認知症になっている という考え方も当たっていますか?」

ーーーそれは違います。診断された人が30%いるということ。心配に思ったら物忘れ外来

とかより まずかかりつけのお医者さんに相談するといいです。ちゃんとスケール

があって それによって診断が出ます。

「私は毎日 顔を洗って鏡を見るとき 笑うことにしています。」

ーーーあ~ それはとてもいいことですねー 毎日脳が活性化してますよ。

認知症研究の権威で ご自身が認知症であるとカミングアウトされた長谷川和夫先生が「認知症は死の不安を和らげる神の恩寵である」と言われて旅立たれたというお話にも 私たちはとても勇気づけられました。自分がもし認知症になったらどうしよう、、、せせらぎでお互いに助けあってどこまで行けるだろうか という悩みを共有している私たちは 先生のお話に真剣に耳を傾けました。あっという間の一時間半・・・快くお話しに来てくださった佐々木先生に感謝!!                         (土)

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ローズマリーの花がこんなにきれいだったとは

cocoせせらぎ  2022・4・10

cocoせせらぎホームページ  2022・4・10

3月1日はカルガモの赤ちゃん誕生記念日です

河津桜が咲きはじめた2022年3月3日、私たちはサロンと食堂に分かれてひな祭りパー ティをしていて、銚子丸のおいしいチラシ寿司をいただき、終わったあとせせらぎ遊歩道に出てみると、目の前が人だかりで、カルガモの赤ちゃん11羽がかえっており、スイスイ泳いでいた。どうも3月1日に生まれ、3日目らしい。

私は昨年8月に入居したので、江川せせらぎのカモの誕生を見るのは初めての体験。なんて可愛いんだろうと感動。しばらくスマホで撮影しながら、眺めていた。

この日以来、外出してヒナを観察するのが日課となる。3月5日、ヒナは8羽と3羽に別れ、その3羽は親から離れ、遊歩道休憩所の横で泳いでいた。

8日、カモの赤ちゃんは8羽に減っていた。3羽はカラスに襲われたのだろうか。市の工事で江川の水が抜かれて、カモの赤ちゃんは小川のはじっこでひとかたまりになって一箇所にじっとしていた。いつも夕方現れるおばちゃんたちは、水を抜く工事がはじまってから、カモの食べるものがなくなり可哀想といっていた。

3月9日、2組目のカルガモの赤ちゃんがかえっており、母ガモのお腹の下にもぐりこんでいるので、数えることができなくて、あとで泳ぎ出したのを数えたら12羽だった。

生まれたてのヒナは、どうやって生まれた場所から石の上の平らなところに移動できたのだろうか、と真剣に考えた。スマホで調べると、母ガモは26日ほど抱卵し、かえったヒナはすぐ歩けるそうだ。なるほどなー。

いつも会うおばちゃんが竹やぶに向かってチビ!チビ!と呼ぶと竹やぶがザワザワと動く。またある日おじさんが水面にいたカモに向かってチビと呼びかけると、道路にいたおじさんのところへ飛んでいき、何かエサをもらったようだ。人の声がわかるらしい。おばちゃんの話によると、この母ガモは生まれたとき迷子になり親からはぐれたのを、おじさんが育てたそうだ。人間の声がわかるんだ~と、また一つ賢くなった。

今では12羽が離ればなれにならないように、メスとオスが2羽でヒナを取り囲んでいる。近くで泳いでいた一組のカップルが急に飛びたっていくと、ヒナたちの母ガモが追いかける。どうも威嚇しているようだ。

3月20日に12羽いたヒナが、21日に8羽になった。おばちゃんたちの話だと、明け方の4時半ころ、カラスが襲うらしい。

3月1日に生まれたカモの親子は、4羽で3月27日に下流の矢上川に移動したそうだ。おばちゃんが写真を見せてくれた。道路を渡り、ヒナが崖を降りて、無事川に戻ったそうだ。11羽から3羽になってしまった母ガモの心境は如何だろうか。

3月31日、2組目のカモのファミリーは8羽のまま随分大きくなり、母ガモの半分くらいになっていた。大きくなるの早いなぁ。無事全員ひとりで飛び立てるのを楽しみにしている。約2ヶ月かかるらしい。

IMG_0006 IMG_0051                   姿のうつくしいコブシの木と満開の河津桜と

ヒナとともに河津桜は満開で楽しませてくれ、散策する人々は癒され元気をもらい、この平和な環境に感謝している。カップルのカモが何組かいるので、これからもヒナをかえし私たちを楽しませてくれることだろう。            (及)                   (カモの赤ちゃんの写真をたくさん撮ったのですが 動画ばかりだったのでここに再現できず  残念です!)

 

 

岩波ホールへ

3月も末の食事どき「岩波でやってる『金の糸』っていう映画 おもしろそうだけど 見にいかない?」という声が仲間の方から。あっ、そういえば 岩波ホールがもうすぐ閉館になるという記事が新聞に出てたなー 岩波ホールにお別れに行かなくちゃ と思いました。「みんなで行きましょう!」という声があちこちから出て・・・  合計8名が参加ということになりました。

神保町方面に行ったことがない人もいて 自称案内人2名による2グループに分かれて それぞれの ”おのぼりさん小旅行計画” がすぐに立てられました。あまり早く歩けない方が多い4名のグループは 友人が出してくださる車で cocoせせらぎから岩波ホールまで送り迎えという豪華な計画。

もう一組の私たち4人はバスで武蔵小杉まで出て 地下鉄三田線に乗ること40分 時間はかかるけど乗り換えなしで神保町に着きました。20代のころ水道橋の近くで働いていたので懐かしい岩波ビル・・・その10階が岩波ホールです。    

コロナもあってお客さんはまばら 三密にならずに座れそうで安心です。ロビーで待つあいだ  高野悦子さんが情熱をそそいで作りあげていったこのホールの空気を吸いこみました。1974年から上映された映画のポスター全部が壁一面に・・・圧倒される数 そして内容。私が30代のころ開館し なかなか来れなくてほんの数%しか見ていないけど ポスターを見るかぎり 興行成績をあげる映画ではなく お金は稼げなくても日本人が見ておくべき映画・・・を高野さんは選ばれたのだと思いました。

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150席ほどのゆったりとしたホール内

たしか見たなと思われる映画のチラシを目で追って みると「父と暮らせば」「ハンナ・アーレント」「八月の鯨」「ガンジスに還る」「冬の小鳥」「最初の人間」「胡同の理髪師」「上海家族」「おばあちゃんの家」「山の郵便配達」「コルチャック先生」など あ、この映画は〇〇さんと一緒だった となつかしく。                                上映中のジョージアの91歳女性監督作品『金の糸』は ソヴィエトの支配から解放されたジョージアの 老女二人とかつてつきあいのあった老詩人が 過去の葛藤を金継ぎのようにつなぐ物語でした。

終わってのお楽しみはロシア料理店 ネットで調べた地図をたよりに古本屋街を行きました。真新しいビルの間にはエンピツのように細くて長い古ーいビルが立ち並び その一つの狭い急な階段を上がって めったに来れないので他の3人に付き合ってもらって책거리韓国書籍店にも寄り・・・さらに裏道を行くと昭和の薫りただよう「さぼうる」喫茶店が・・・昔せまい椅子に座って食べたっけ 山盛りの庶民的なナポリタンの味・・・ 

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「さぼうる」も岩波ホール閉館と同時に閉じるとのこと。デジタルの進んだ時代に このようなレトロな岩波ホールやさぼうる喫茶店は時代遅れなのでしょう 残念至極。。。

やがて「ろしあ亭」を探しあて さっき見た映画を思い出しながらボルシチ・ピロシキ・パン種で蓋をして焼いたマッシュルームシチュー・生ビールなどをいただいて満足の夕食。ビールのおかげかウトウトしながら地下鉄・タクシーを乗り継いで せせらぎに帰りつき 平均年齢80歳はゆうに超えた一行の 神保町探訪は無事終了です。(土)