カテゴリー別アーカイブ: NWES

cocoせせらぎに暮らして      2025・1・25

皿洗いって いつまでできるかなぁ?

2025・1・25

おそなえ餅が棚にまだ飾られ 正月気分が残っている1月6日の朝 ひとり入院中で9人のメンバーでしたが 明るい陽射しのサロンに集まりました。

今年最初の入居者会議 いつも”会議はサッと終わろうね”と言ってるのに 今日も解決が難しいテーマが出てきて いろんな意見が交わされました。

そのテーマとは?

メンバーのみんなが一年一年 日常の動きがむずかしくなってきているなかで ”食器の後片づけ” について話し合いたい と提案があったのです。

食事スタッフの方は夕食を作りおわると帰宅 私たちは「美味しかったね~」と食べおわったら 後片づけは自分たちでやろうということになっています・・・できるだけ自立の生活をめざして!

ところが お盆にのった重い食器類を両手で持って 転ばないように流しまで運ぶのがむずかしくなる・・・腰や腕が痛んでくると流しに立って皿を洗うのがつらくなる・・・乾燥機にいろんな形の食器を詰めこむのがややこしい・・・流しを磨き布巾を洗いゴミを袋に詰めて外のゴミバケツに入れるまでの作業はシンドイ・・・まして1時間後に食堂にひとり降りてきて乾いた食器を棚に納めるのはもう億劫! 忘れることもあるしね・・・と これらは程度の差はあっても みんなが感じている煩わしさです。

「乾燥機をやめようか? 自然乾燥とか・・・お皿ももっと軽いものに変えて 片付けをシンプルにしようよ。」

「乾燥機がないとダメ! 水分が残ると菌が繁殖して 食中毒につながる。」

すでに「後片づけは卒業したい」と言うメンバーも二人います。

他に「代金を支払って外注にしたい」と提案する人もいます。

「当番制にしているからきつくなるんじゃない? 皿洗いも せせらぎ生活がうまく回るためにできる人ができる範囲でやっている”小さな仕事”の一つと考えて できる人がやればいいじゃない?」

「そうなったら できない人は申し訳ない気持ちになる。」

「じゃあ やらない人は空き瓶に一回10円とか50円とか入れて 一ヶ月たったらそのお金でみんなでビール飲むっていうのはどう?」

「中のメンバーじゃなく外の人にお金を払ってやってもらうのが一番気楽だね。」

「うん そういうこと。」

「私は台所仕事から離れたくない。やめたらあっという間にフレイルになってしまうから できるだけ長く好きな台所仕事をつづけたい。好きなことをつづけていれば 元気を保てるって言うじゃない?」

などなど・・・いろんな意見が出てきました。

あれ? これってcocoせせらぎの柱「自立と共生」を実際に即して考えるのに合っているテーマなんじゃない? 自立と共生という抽象的な概念の中に ”皿洗いという具体的な行為” をどのように落としこむか? 私は8年もここに住みながらまだうまく理解できていない「自立と共生」 それを実生活に応用して考えてみるいい機会になるんじゃないか とふと感じたのですが・・・

会議はもう予定の時間を過ぎていました。どんな答えを私たちは出すでしょうか? つぎの機会に報告したいと思います。

(入居者・土)20250121_163901

 

冬のサルスベリ             春には葉をさかんに出し 夏・秋にかけて花を雲のようにたくさんつけたのに・・・いま川の淵に何事もなかったかのように立つ裸木

 

cocoせせらぎに暮らして   2024・12・25

  ” 楽しい選挙戦 ”

                                                                                                                  2024・12・20

あれれ? なんか変だ・・・生活の質がどんどん落ちてきているんじゃない? と思うことが最近よくあります。

コロナが流行りはじめたころ消毒薬が薬屋さんからあっという間に消え たかが一枚のマスクにも長い行列ができたことにはビックリだったのですが 最近になって私は咳止め薬を求めて あれれ?と思うほど遠くまで薬局を探しあるきました。

バスの便数やコースが年々減ってきて タクシーもなかなか来なくなって 私たちは外出をためらってしまうのに せまい路地裏にまでお金持ちのベンツやアウディなどの高級外車が走りまわっています。

木々の多かった所からいつの間にか緑色が消えて コンクリートの高層ビルがニョキニョキとあらわれ・・・

公務員だと思っていた図書館司書 ハローワーク職員 役所職員など多くの人が非正規雇用だそうで なんと日本の労働者の4割が非正規 あれれ? 年金どうするの・・・

ヨーロッパから乳製品を輸入するために日本の酪農家が牛乳を溝に捨てたり お米がいきなりスーパーの棚から消えたり 値上げの波が次々とやってきて 食べるに困る人々がフードパントリーに並ぶ。「一日二食しか食べられないひとり親世帯を助けて!」というテレビの公共広告に胸が痛みます。そして強盗詐欺事件の多いこと・・・つい最近の事件では税金の支払いに窮した若者が闇バイトに誘いこまれたという。

なんか貧しく荒れた社会になっていくなぁという実感は GDP一人当たり世界第2位だったのが今や36位だし 30年間日本だけ賃金下がりっぱなしという統計が出ていると聞けば あれ~実感通りなんだと納得。税金・社会保険料として給料の48%も引かれるのでは 若い人たちが結婚も子育ても家も車もあきらめるのは当然の成り行きだなー と。

折しも政治家が資本家を招いてパーティを開き 何百万 何千万のお金を帳簿につけないままポケットに入れていたことがバレて 国民の怒りを買い 今年10月「選挙でガラガラポン!」ということになりました。

あれ~ なんか政治がおかしい 私になにかできることないかなぁ~ と考えはじめるのがバカなところなのですが こんなに貧富の差が広がった社会を子どもや孫の世代に残せないじゃない? と82歳 人生初の選挙の手伝いを体験しました。

選挙ってどうやるの? 最初は恐る恐る エネルギーに溢れた若いボランティアの皆さんの後ろについていきました。横浜の選挙区は坂道や階段が多く 心臓パクパク 息ハーハー でも皆さん特に私を年寄り扱いするでもなく またスピードについていけないと見れば足を緩めてくれたり・・・やさしい若い友人がたくさんできました。

ネコの手より少しはマシかな と思いつつ手伝わせてもらっているうちに 2週間はあっという間に過ぎ・・・結果は「あれれ~落選!」。でもこの30年間ビクともしなかった国会がグラっと動いて 与野党伯仲の緊張感が生まれはじめた様子。私たちの生活の質は 少しは上がるかな?

何よりの収穫は選挙戦を通して健康になり フシギなことに風邪をひかなくなりました。    私の今年最大のイベントは。。。そう、もちろん”楽しい選挙戦”でした。   (入居者・土)

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選挙が終わってほっとして     日吉慶応大学構内の銀杏並木を見に。

イチョウの葉が落ちて       真っ黄色になった道を散歩     夕日が射して あたり一面     ぼーっと明るい道でした

 

 

 

 

 

 

 

  家族で韓国旅行に

2024・12・25

今年夏頃 旅行に行こうよと話し合いになり どこにする! 娘と孫娘・孫息子・私の4人で韓国に行こうということになりました。

コロナ禍の前に失効していたパスポートを取ることからはじめました。孫息子が来春大学卒業し 就職先が内定し 3月には会社の寮に入ることになるそうで そうなったら)家族で一緒に旅行は無理なので それぞれ仕事や学校の用事を調整し 12月初旬にしようと決めました。

娘は二度目の韓国 他の3人は初めて。手続きはすべて娘に任せ 私はついていくだけ。足腰が丈夫なうちと決めたのは正解でした。

1日目は羽田発朝8時半の飛行機に乗るため 娘宅を出たのは5時半 金浦空港に着いたのは11時半でした。入国するのに1時間以上かかり 迎えに来ていたタクシーに乗れたのは1時半。

ソウルは1週間前に大雪に見舞われ 心配していましたが 三日間好天でほとんど雪は溶けており 乗り物に乗っているときは何の心配もなかったのですが 外の空気はとても冷たく さすが韓国と思いました。

最初に案内されたのは世界遺産の韓国民俗村でした。民俗村はとても広大で 朝鮮時代の建物や文化を見ることができました。1734850292368グルメや商店も多く 短時間に回りきれませんでした。ランチには焼肉を食べ 大いに堪能しました。タクシーの運転手はとても気さくで また2時間ほどかけてホテルに送り届けてくれました。日本語が堪能でいろいろ話をしてくれ楽しい会話でした。ソウルは片側5車線が車で溢れ渋滞していました。           (写真は民俗村での踊り)

一旦ホテルに荷物を置いて 賑やかな明洞(ミョンドン)の商店街を見て回りました。夜店の通りは観光客であふれていて なかなかお土産を買うことができず タクシーを拾えず 地下鉄でホテルに戻り眠りにつきました。

2日目はホテル始発のバスツアーで 北朝鮮国境線までバス貸切で出発しました。アメリカ人と日本人の乗客はそれぞれの言葉が流暢なガイドさんの案内で国境線近くまで到着 近くは鉄条網に囲われていました。北朝鮮との国境の北緯38度線や地下トンネルのそばまで行くと バスの中に韓国の兵士が入ってきて パスポートと顔写真を見比べられ 1734850159830写真撮影禁止 指差し禁止 不安材料満載でした。   (写真は北朝鮮と韓国の軍事境界線)

国境では小高い山道を登るということなので 私は疲れていたのでバスに一人残り 北朝鮮が見えるところまでは行きませんでした。娘の話では 展望台から見渡せる所からは 北朝鮮の農場で働いている人たちが見えたということです。

ホテルへの帰途 ソウル付近では尹大統領に対する大規模なデモがあり バスが渋滞に巻きこまれ途中で降ろされました。ホテルには地下鉄で帰宅しました。若い人たちはもう一度夜の街に出かけ深夜1時まで買い物 でも私は疲れて寝てしまいました。

3日目は朝遅くホテルをチェックアウト 1734850341856空港に着く前に参鶏湯(サムゲタン)を堪能しました。       (写真は土鍋の中に一人前 鶏一羽の参鶏湯)

夜7時半の飛行機に乗り 娘の家に着いたのは夜11時過ぎ 3日間で3万歩近く歩きました。 食べ物はどれも美味しく 今度行くときはハングルを読めるようにしたいです。                (入居者・及)

 

cocoせせらぎに暮らして  2024・11・30

秋を求めて

2024・11・20

地元旅行社の東北一泊バス旅行に便乗して cocoせせらぎの入居者・スタッフ・ボランティアの7名が秋の旅に行ってきました。

首都高速道に乗ったとたんにさっそくビールで乾杯して盛りあがり 昼は宇都宮名物の餃子でした。

途中に立ちよった若山農場は竹林と栗林の農場です 竹林散策と青竹のお椀でいただいたお抹茶は甘露 お椀は旅の記念にいただけました。

春は筍 秋は栗を無農薬有機栽培で100年にわたり作っているそうです。

荷物になるなと思いながら4Lの栗の大きさに惹かれ つい買ってしまいました。

(余談ですが 帰宅後ゆで栗 栗おこわ 焼き栗にチャレンジしたところ期待以上のできばえと味に大満足で 旅のはじまりに重い物を買ってしまった後悔も吹っ飛びました。)

ふたたび高速で一路福島へ 今回一番の目的地“野地温泉♨️”へと山を登っていきます。

高度が上がるにつれて木々の色付きが鮮やかになりましたが 日没が迫ってきましたので明日山を下るときの楽しみに取っておこうと あたりに硫黄のにおいの漂う野地温泉ホテルに到着です。

山の途中にいくつもの温泉がありましたが野地温泉は一番高く 海抜1200mです。

古くからの湯治場で源泉掛け流しの濁り湯は地元の人にも雲上の湯として親しまれてきたようです。

到着後の夕食までの時間に まずは一風呂浴びました。

内湯と露天風呂の濁り湯は柔らかく 皮膚に効くというのもなるほどの納得です。

夕食時は大広間の宴会でカラオケ大会になり 皆さんつぎつぎにリクエストしながら曲に合わせダンスする人もいました。

締めはせせらぎエースのSさんによる河内音頭で全員が踊りました。

その後二次会をしたり入浴したりで 夜も更けて就寝。

ガイドさんの情報によると夜間の降雪で猪苗代湖へのスカイラインは通行止め この辺りはみぞれだったとの事でした。私は窓からの雨音がだんだん強くなり目が覚め 朝風呂と朝食の後 出発の9時には雨が上がりました。朝靄のなか 右左に紅葉の山を眺めることができました。

雨の予報も出ていたのに 晴れ女多数参加のお陰か次の会津若松鶴ヶ城に着くまでに青空が出てきました。image3

城の大きな銀杏が真っ黄色に染まり見事でした。足元に落ちているギンナンを見ていると 地元の人が早朝にギンナン拾いにくると教えてもらいました。

鶴ヶ城は会津白虎隊の戦いを思い出させますが、現在の城は昭和に建立されました。

登ることも可能でしたが エレベーターがないとのことで諦めました。土産物センターの品揃えは豊富で 地酒を買った人も多かったです。

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つぎは今回のバス旅の二つ目の目玉の大内宿でした。江戸時代の街道と宿を彷彿とさせる茅葺きの住居が道に沿ってならび 借景となる山々の紅葉も見事で 多くの人が散策していました。

私たちはまずお昼をいただくことにして 名物の高藤蕎麦や天ぷらその他でしっかり腹ごしらえ 冷水で引き締められたのか お蕎麦がことの外おいしく感じられました。

スタッフのSさんのご実家が街並みの中頃でお土産屋さんをしておられるので これもご縁と押しかけて義姉さんとご挨拶しました。

いい旅だったなあと感じつつ 夕暮れの迫るなか また高速に乗って帰宅しました。

(入居者・石・太)

 

少しの負荷を

2024・11・30

先日90歳を迎えられた上皇后美智子さんが まだ60代頃のある誕生日にこう言われたのを憶えています。

「還暦を超え これからは日々の生活に少しの負荷をかけながら過ごしたいと思うようになりました。」

えーっ! 美智子さんが負荷をかけるって? すべてのことを誰かがやって差しあげる皇室のやんごとなきお方が なにに負荷をかけるのだろう・・・もちろん公式行事 日々の公務にお忙しいとは思うものの 買い物 炊事 身辺の片付けや家計の心配などとは無縁の方なのに・・・ そういえばお若い時のことを思い出してみると それまでの皇室では育児は乳母に任せきりだったのに 「自分でやります」と宣言して離乳食を作っている写真が公開されたこともあって 生活のなかで少しずつ自立の領域を増やしていかれたのかな などと想像したものでした。

それから20数年もたって 美智子さんが言われたこの「負荷」という言葉が なぜか私の頭をよぎるようになったのです。すっかりガタのきた体や頭をかばって 私の日常ときたら・・・すぐにエレベーターに乗りたがるし 近所の買い物にもつい自転車に乗るし 重いものを持ちたがらない 新聞のめんどくさそうな記事は読み飛ばす 本は積ん読 手紙を書かなければいけないことにもメールや電話ですましてしまう めんどうな仕事はテイよくお断り 混みいりそうな人間関係からはそっと離れる・・・。

80を過ぎたのだから と自分を甘やかしてばかりのこんな生活をしていたとき 「負荷」という言葉が私の肩をトントンと叩きました「これを続けていたらフレイルの坂を転げ落ちるよ」と。。。

少しの努力と挑戦 少し荷を負うこと 今までよりほんの少しエネルギーのいることを敢えて自分に課してみよう と思いはじめました。エレベーターはやめて階段を登ってみよう 自転車じゃなく歩いてみよう 今まであまり読んだことのない類の本も勧められたら手に取ってみよう 新しい人間関係に思いきって飛びこんでみよう と。

すると・・・82歳の膝や腰はギシギシいうけど 面倒臭がりの頭はパンクしそうになるけど 緊張はするけど 坂を転げ落ちるスピードがちょっと緩んだような?? いや、気のせいかな?

週に二回 小さなフィットネスのジムに通って 今の体力を維持できれば最高!と思いこんでいたのですが 「少しの負荷をかける」を決心してからは体力補強!とばかりに ウォーキングマシンで10分しか歩かなかったのを12分に ボート漕ぎマシンでは8の負荷を10に上げようとする自分がいたのです ぷよぷよの脂肪を筋肉に! ハーハーいっている肺を息切れのしない肺に!を目指して。

願わくば 死ぬまでになんとか腕のフリソデをツツソデくらいにしたいなぁ。。。

(入居者・土)

20241115_134108               20241115_140859      11月半ば 友人と世田谷区の砧公園を散歩しました。環八に沿って 車の行き来のはげしい都会の真ん中 でも一歩入るとしーんとして 広々とした空間に木々が自由に 少し色づいた枝を広げていました。

 

 

cocoせせらぎに暮らして   2024・10・30

歌 と うた

2024・10・30

あの炎暑は一体何だったのかと思うような冷涼な秋晴れが続いています。空気が軽くなって心地よく呼吸できる。

この春、息切れがあるのでかかりつけ医に相談、肺活量測定、レントゲン撮影、MRI検査など一通りの調べの結果、軽度のCOPD(慢性閉塞性肺疾患)という診断だったので合唱練習を休んでいました。cocoせせらぎから洋光台の練習会場に通うのもしんどいので、現在も休団。

その上3月に転倒して硬膜下血腫の手術で三週間入院治療の間に、廃用症候群で歩くこともままならず、とうとう介護度1の認定を受ける羽目になりました。83歳の老人であれば救いがたいというほどの状態ではないと思うも、自宅でじっとしていることも性分にあわない。

ゴロゴロしていたところ、高校時代の国語古文参考書に手が触れ、万葉・古今・新古今・・・・等の勅撰集の名歌を遅まきながらなぞるように復習し、和歌短歌に改めて興味を抱いたが、読むのと詠むのは大違い。「虚ろ歌」「腰折れ歌」しかできないが、五+七+五+七+七=三十一文字に揃えるのは結構たいへんな作業。紙の辞書、デジタル古語辞典、現代歌典、       高層マンションと名月

インターネット検索に頼っているが、花鳥風月春夏秋冬ヒトモノコトへの感覚が加齢とともに鈍化しているので、何を詠むのか焦点の合った一語が定まらないで四苦八苦。月一回の例会に出すことになっている僅か二首の課題提出さえ期限切れもあるが、年寄りには短歌は努めて続けようと思います。

妻の死、満五年の11月、この二首で独り飲酒します。

背を丸め小物繕う居間の妻小春の午後の光やわらか

死ぬ妹がなしとなげきし安楽死遂に遂げたりモルヒネを借りて        (入居者・池)

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cocoせせらぎに暮らして  2024・9・20

筆を口にくわえて・・・星野富弘詩画展 

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2024・9・20

8月23日 近くの日吉の教会で「星野富弘・花の詩画作品展」があるから タクシーで行きましょう と入居者の T さんに誘われ せせらぎの仲間4人で行ってきました。

会場には40枚ほどの詩画作品の原画が展示してありました。星野さんの書く詩や草花の絵は 優しさと温かさにあふれていて 原画に触れ 生命の尊さを改めて感じる出会いになりました。

私が星野さんを知ったのは約40年ほど前で 友人のススメで詩画集を見るようになり 感動して本を買っていくうちに3冊になりました。せせらぎに越してくるときに たくさんあった本はだいぶ片付けたのですが この3冊は大事に持ってきました。

1970年 星野さんは群馬大学卒業後 中学校の体育教師となり クラブ活動中に頸椎を損傷して手足の自由を失い 大学病院に入院。

2年後に口に筆をくわえて文字を書きはじめ さらに2年後からは花の絵を描きはじめ 7年後に最初の作品展を開きました。1日に2時間 筆を口にくわえて 一つの作品に仕上げるのに大体10日から15日かかるそうです。 IMG_0012

星野さんの絵と詩を見るたびに 人間の可能性はすごいものだと 勇気と強さを感じます。私は落ち込んだときには 星野さんの本を広げて励まされています。良い本にめぐり会えたことに感謝です。

星野さんは今年4月 78歳で亡くなりました。もう新しい絵を描かれることはないんだと思いながら 原画展の会場でもう一冊買い求めました。群馬の記念館にもぜひ行きたいと思っています。              (入居者・及)

cocoせせらぎに暮らして  2024・8・25

 体を鍛える・・・フィットネス

2024・8・25

昨年の半ばころだったか お誘いのチラシをいただきました。               「シニアの体の衰えを防ぐための高齢者向けフィットネスをやっています           週に二回 送り迎えもあります 保険診療の範囲です 一度体験してみませんか」

街中のフットネスの広告を見かけることがありますが 高額の入会金と高額の利用料。でもここは保険の範囲ですって・・・ 一度体験してみましょうか? 体験でも送迎してくださるというので みなで興味津々フィットネスというところに行ってみました。

通りに面したガラス扉に【◯◯整骨院】と書いてありました。元住吉ブレーメン商店街はずれに 先生と 受付その他いろいろ面倒を見てくださる奥さん 送迎車の運転士さん 3人でやってらっしゃる可愛いフィットネスでした。

中に入ると 所狭しとウォーキングマシーン 足踏みマシーン 自転車漕ぎ トランポリン 贅肉落としのバイブレーター 腕を鍛えるマシーン 腰のひねりを強化するマシーン 背筋腹筋を鍛えるマシーン・・・などなど全部で14、5台が並んでいます。

私たちはまず後期高齢者医療保険証を提示して 今の自分の体の状態を書く用紙に記入しました。するとロッカーの鍵についたタイマーを貸してくださり 3分半くらいの目安で 自分に合いそうなマシーンを3つ選んでやってみるようにと。 82歳にしてこのようなマシーンは初めての私・・・なんでもいいか まず側にあった腕の筋肉を鍛えるのがいいかな?と ボート漕ぎのようなマシーンに座りました。腕っぷしは自信ある方なので難なくクリアー。でも次の背筋腹筋マシーンに移るとなかなかの苦行  お腹の筋肉がつりそうになりギブアップ! 三つ目のかがんだ姿勢から立ち上がるマシーンにはまったく歯が立たず足はブルブル 頭の血管はドキドキ。。。。してきました これはキツイ!!IMG_0005

三種類のマシーンを終わると 今度は奥のベッドで肩腰に電気をかけながら 片足ずつに長いブーツのような物を穿いて空気で圧迫 血の循環をよくする(らしい)療法がはじまりました。マシーンでドキドキした後だけに ベッドに20分くらい横になっていたらうとうとしてしまいました。

うん 体が軽くなった! これは体によさそう また来ます! と帰りの車に乗りこみました。体験を終えて せせらぎから5人が会員になることとなり 今は週に2回通っています。

新聞に「厚生労働省が高齢者に 毎日4~5000歩の散歩と 週2回の筋トレ・ストレッチ・フィットネスなど体を動かすこと を健康指針として推奨」という記事を見つけました。あら 週に二回送り迎えまでしてくださる◯◯フィットネスは 後期高齢者の私たちにぴったり!

その上 体のどこかに故障が出たときには先生が診療して マッサージや体の動かし方の指導をしてくださるし 奥さんは私たちの名前をあっという間に覚えて「〇〇子さん おはようございます!」と明るく声をかけて 送迎の運転士さんはついこのあいだまで介護のお仕事をされていたそうで乗り降りサポートも懇切丁寧・・・私たちはこんなご縁に恵まれ 毎回感謝のフィットネスなのです。

(入居者・土)

 

cocoせせらぎに暮らして 終戦記念特集 2024・8・15

はだしのゲンが 核兵器のない平和世界をもとめて 地球を駆けめぐっています

cocoせせらぎホームページ 終戦記念日特集      2024・8・15

 

90歳を過ぎて はじめて漫画の本を読みました 『はだしのゲン』です。

なぜ読んだか・・・2023年度の教材から『はだしのゲン』を削除する 図書館からも撤去すると広島市教育委員会が決めたというのです 言葉が下品だから 子どもにふさわしくない言動があるから だそうです。削除され撤去される前に 一度読んでおかなければ・・・と思いました。

読んでみて 言葉が下品? 子どもらしくない言動? と不思議でした。下品で 子どもらしくないからこそ『はだしのゲン』はあの時代のりっぱな歴史書なのでは? 子どもたちは原爆の下で生きのびるために 喧嘩をするときも遊ぶときも本音で 子どもの社会を作っていったのではないでしょうか。

作者の中沢啓さんは次のように記しています。

「原爆をテーマにして漫画を描くのはしんどい。でも子どもらは素直になにが真実か見きわめられる。そして作品の中に入っていき ゲンになりきって平和の尊さを理解してくれると念じている。それをわかってくれれば本望だ。」BM2j7K0aiKyzud2kfkni6g__

ゲンの父親は「この戦争はまちがっている」と主張し 特高警察からいつも監視されている人でした。母親はやさしくゲンたち4人の兄妹たちを育てる 貧しいが平和な家庭だった。1945年8月6日 一発の原子爆弾が落とされました。一瞬にして広島の街と人は6000℃の火に焼かれました。ゲンの父親も建物の下敷きになり 火の海の中で姉弟3人が亡くなりました。父親はゲンに「お母さんと逃げろ ゲン! 麦の穂のようにまっすぐ生きるんだ」と叫んだ。

戦後 一人で生きなければならなくなったゲンは 喧嘩もする 盗みもする・・・そんな生活を4人で助け合いながらはじめます。火傷で顔にケロイドが残り 長い髪で顔を隠している日本舞踊を習っていた女の子、大人になったら洋装店を開くという夢をもっていた女の子、死んでしまった弟そっくりなケロイドで髪の毛がなくなってしまった男の子、ゲンと4人で励ましあい寄りそって生きていく。でもきれいごとでは生きていけない 精一杯背のびをして大人のふりをして 大人の真似をして 盗みもはたらく・・・

敗戦直後の広島の苦しい歴史を知らないはずはない教育委員会が 言葉の下品さ らしくない子どもの姿を理由に  この漫画を撤去するとは?BM2j7K0aiKyzud2kfkni6g__-1

『はだしのゲン』は今 24カ国以上の言語に訳され 世界中をはだしで駆けめぐっています。世界が知ろうとしている”はだしのゲン”を なぜ日本の子どもたちの目に触れさせないようにしているのでしょう。

漫画の最後のページでゲンは言っています。

「できることなら世界中の国々にきれいな虹をかけて 国境もなく自由に虹の橋を渡って 世界中の人たちとなかよく話し合い 戦争のない平和な世界が作れたらすばらしい。」

核兵器禁止条約が発効して3年がたち 世界の70カ国が批准しています。世界で唯一被曝を経験した日本こそ 核兵器の悲惨さを権威をもって語れる国 しかし条約に加盟していません。戦争体験をした年代の私たちだからこそ 核兵器禁止条約に加盟する運動をしていきましょう。                    (前理事長・前田)

79回目の終戦記念日 ゲンももはや90歳に近く 多くの戦災孤児と同じよ

うに生き抜き どこかで元気に生きているような気がします。

「ゲンは今 八十路を超えて胸におり」  朝日川柳欄 2024・8・6より

NPO法人cocoせせらぎ 第10回総会

2023・10・30

10月24日 記念すべき10回目の総会が開かれました。秋晴れの当日 入居者 運営委員 理事 スタッフなど 正会員26名中19名が集い 10時から始まりました。

2022年9月から今年の8月までの せせらぎでのすべての活動 会計の動きが報告され 多岐にわたる質問もあって活発に質疑が行われ 無事に今期の運営が了承されました。

日本全体の経済的な落ちこみと戦争その他による物価高という大波のなかで 小さな組織であるわがせせらぎも揺らぎ 特に食材費の面で再考を余儀なくされました。入居者会議で運営側と何度か話し合いをもち 5000円値上げということが総会前に決定されていたので 来年度の予算・計画も了承。また一年 このcocoせせらぎという大事な小船を新たな10年に向かってみんなで漕いでいこう! と思いを新たにしました。

出席の皆さんで簡単な昼食を共にし 今年の総会は終わりました。

 

10年間いつもせせらぎの中にいて 優しい笑顔で支えてくださっていた福井正子さんが 79歳になったので事務局長 ライフサポーターの役は降りて 理事 運営委員 ボランティアとしてこれからはせせらぎと関わりたい と総会で挨拶されました。

10年前に志をもって立ち上げられた前田由子前理事長のこと 諦めずに土地探しを続けられた白井理事・この場所をやはり志をもって提供してくださった秋元幸子さんのこと 棟上げ式の餅まきの話 入居者が4、5人という状態がつづいた当時の苦労 10人満室になって喜びあったこと・・・などなど福井さんは思い出を語られました。

この10年間 福井さんはいつも事務室のテーブルの向こう側から ふらっと立ちよった私たちに優しく話しかけ 気持ちを受け止めてくださいました・・・意見したり否定したりでなく受けいれる優しさをいつも感じました。福井さん 今日はいらっしゃるかな〜〜 といつも楽しみにしていました。これからもお元気な顔をたくさん見せてくださいね。スクリーンショット 2023-11-06 114104

理事の久保さんは 今年も体調に問題を抱えつつ そんなそぶりもなく颯爽と総会に参加してくださいました。「大きな手術を控えているけど 来年も無事だったら元気で参加しますよ」と言って帰られました。例年のように農園からのお土産でサツマイモをたくさん・・・調理スタッフの皆さんはそれを余すところなくメニューに生かし サツマイモご飯 大学芋 スウィートポテト お芋のリンゴ煮(入居者手作り)など 「食欲の秋」そのものの一週間を過ごさせていただきました。久保さん ありがとうございました。

↑  サツマイモがねずみに変身                                                                    (入居者・土)

せせらぎの仲間たち

「COCO せせらぎ」をご支援いただいている皆様

                             NPO 法人川崎北部グループリビング  理事長 酒井行夫

いつも「COCO せせらぎ」をご支援いただきありがとうございます。
2010 年 7 月に高齢期の生活を考えようとグループリビングの勉強会、設立準備会を始めて 3 年、高津区明津で素晴らしい地主さんとの出会いがあり、2014 年 7 月に「COCO せせらぎ」 をオープンする事が出来ました。
「自立と共生」を掲げ、高齢期に入った一人住まいの人達が、共同することで社会的なつな がりを持ち、きちっとした食事をとることで、いつまでも元気でいられる 10 名の住まいを目指 したものでした。
設立時の説明会では多くの方にご参加いただきましたが、実際は 4 名での船出となりました。 その後も入退去を繰り返しながら、2020 年 7 月に初めて 10 名満室になりました。
現在、入居者の方は皆いきいき生活して運営にも参加し、運営委員会に 2 名が入居者代表と して参加、その他にも小さな仕事を皆で行うなど、当初想定した通り 10 名程のコミュニケーシ ョンが良いと実感しているところです。その後も入居を希望される方が多く、現在入居予約者 9 名となっています。

運営母体として NPO 法人を選択したのは、継続性の問題からでした。人は年々年を取ります。NPO 法人も構成員が若返らなくては続きません。今年度は新たな理事 3 名に参加して頂 けることになりました。2 人はまだ 40 代でこれからを担っていって欲しい人材です。

前田さんも 90 才を迎え、理事長を退任され、私が新たな人材が育つまで理事長を引き継ぐことになりました。前田さんには副理事長として、まだまだ 「COCO せせらぎ」の為に力を出して頂けると思います。
コロナ禍の中、「COCO せせらぎ」も対外的な活動を制限される状態が続いています。実際 に活動できない中で、私たちの生活を知ってもらうにはどうしたら良いかと、2020年からせせ らぎに暮らして感じたこと、昔の思い出、これからのことなど、入居者やスタッフに自由に綴 って頂き、毎月ホームページに掲載してきました。2021 年 10 月には「グループリビングに暮ら して」として纏めたものを冊子に致しました。大変好評でしたので、2022 年 10 月に№2 を発 行致しました。
グループリビングという住まい方の選択肢は、これからの社会により必要とされています。  さらにこの運動を広げて行けたらと思っております。

cocoせせらぎホームページ  2023・2・28

cocoせせらぎホームページ     2023・2・28

春の足おと

寒くてちぢこまっていたのに 日射しが今までよりちょっと明るくて 外に出ておいで!と呼ばれているような気分になる日があります。                         cocoせせらぎの3階から南を見ると 神庭(カニワ)里山と呼ばれる丘陵が広がっています。2月 その里山が 春だよ! と言っているようなうっすらピンクに霞んだような色合いに染まってくるのです。それを見たとたん 毎年かならず口をついて出てくる歌が・・・

丘の日射しは 明るくて                                 雑木林の楢(ナラ)の芽が                                 あかくけむって見えるから                                春は ほら ほら もうすぐそこまで                           きているよ

東北大学教育学部附属小学校教師だった富田博*作詞 仙台の高校教師だった海鉾喜美*作曲の『春の足おと』という歌。

私は富田博先生がいらした附属小学校に敗戦2年後の1947年に入学し この歌をよく歌いました。校歌も富田先生が作詞された「夜明けだ夜明け 青いぞ空は」という素敵な校歌でした。    物資も食料もなくて 私はわら半紙の教科書と数本の鉛筆を 布製のうすいカバンに詰めて ゲタを履いて 雨の日はカサもなく風呂敷をかぶって通う やせ細った小学生でした。ノミ・シラミだらけだったので 全校生徒一列に並ばされて 頭から袖口から白い粉のDDTを噴霧され 栄養失調だったので肝臓ゼリーや虫下し薬が配られ 脱脂粉乳とコッペパンの給食も3~4年生の頃からはじまりました。アメリカ軍から下りてきたのか 切り干しリンゴなどという不思議な給食もありました。

学校には戦争から復員してきたばかりの先生もおられ 真っ赤な顔で大声で怒ると軍国兵士だった面影が・・・なにしろ世の中は混乱していました。敗戦まで陸軍の末端組織に組み込まれ軍国主義一色だっただろう小学校が いきなりアメリカ占領軍がもちこんだ民主主義というものに 必死で順応しなければならなかったこの時代。戸惑いながら新しい教育のあり方をさがしていたのでしょう。この国立の教育学部附属小学校の全生徒は 毎月のように知能検査を受けたり脳波を取られたりと かなり実験的でした。

そんな学校の国語教師だった富田先生は 多分リベラルな優しい考えの持ち主だったのではないだろうか・・・戦争中はなにも言えず苦しい思いをしてきたけど 民主主義の時代がやってきて 勇ましい軍歌調でもなく お涙頂戴の演歌調でもない 子どもが素直に晴れやかに歌える歌を・・・と 湧き出すようにたくさんの詩を書かれたのではないかと想像します。

学校がえりの つるつる雪みち 走ってかえろー 走ってかえろー 走ってかえろ

タ ラッタ ラッタ ラッタ ラッタ ラッタ ラッタ ラ                 カタカタ カバンが背中で鳴って クンクン子犬も尾をふって走る

何が起きたのかわからず大人になされるがまま 食べるものもなくやせ細った仙台の子どもたちに 富田先生は「戦争は終わって明るい時代が来たんだよ! 春がやってきたんだよ!」と伝えたかったのではないだろうか? 私たちは家でも学校でもこれらの歌を気分よく歌いました 作曲がまたとても歌いやすく 歌詞に合ったメロディーでしたから。

つらい思い出の方が多かった小学校時代でしたが 富田先生の歌が口をついて出てくると 不思議となつかしい気持ちで仙台を思い出すことができます。       (土)

 

 

せせらぎの春の兆し             

江川せせらぎ沿いの1月末 蠟梅が満開のお宅を見つけました。こんなにたくさんの花が咲いている蠟梅を見たことがないので もしかしたら別の花かも・・・

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今まで茶色一色だったのに 緑色の下草が生えてきた2月半ばのせせらぎ遊歩道

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河津桜の花芽が いまにも咲きそうにぷっくり膨らんでいます。IMG_00092月半ば 河津桜が開きはじめました。

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2月末 五分咲き?

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地面の上では野の花が開きはじめました。ホトケノザの花の一つ一つにかわいい顔が見えます。

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春一番にひらく野の花 クリスマスローズ

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