cocoせせらぎホームページ 戦争特集 2022・8・15

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  戦 争 特 集

終戦記念日が今年もめぐってきました。

cocoせせらぎに入居している平均年齢80歳くらいの私たちは 多分若い世代が感じるのとはちがった気持ちで この日を迎えます。それは幼いながらその戦争を実際に経験したから。

しかし今まで その体験を話すこともなく過ごしてきました。もし今話さなかったら 私の命が消えると同時に私の経験も消える・・・今話しておかなかったら その経験は無かったことになってしまう 若い人に伝えたい!・・・と考えて 何人かの方に「戦争の頃 どこにいらしたんですか」と声をかけると 思い出の糸がほどけるように出てきました。

今回5人の方の経験をホームページにまとめました。

終戦時に何歳だったかによって記憶の鮮明さにちがいがあります。(石)さんは終戦の時にはまだお腹の中 (土)さんは3~4歳   (KH)さんは6歳 (三)さんは9歳 (前)さんは12歳 それぞれの年齢での戦争を 思い出すままに書いていただきました。なお(KH)さんは入居者の友人 入居を考えてせせらぎの見学にも来られた方です。IMG_0005                      (せせらぎ遊歩道 ピンクのサルスベリ)

暑い夏 私の広島

私は第二次世界大戦敗戦の年 昭和20年12月に大阪の郊外で生まれました。

8月6日に広島に 9日には長崎に原子爆弾投下 15日に敗戦となりましたが 私はまだ母の胎内にいました。

広島には縁もゆかりもなく 原爆については教科書でキノコ雲の写真を見たことがあるというくらいで なんの知識もありませんでした。

中学2年の夏に 父の転勤先である広島市に引っ越し それからの3年間の広島での生活で 今も私の反戦への思いを強く方向づけた経験があります。

その一つが転校先の中学校での出来事です。クラスメイトに小頭症の男の子がいました。その人はときどき授業中にもてんかん発作を起こしていたのです。

担任の先生から胎内被爆によるものだと聞き びっくりと同時に原爆の恐ろしさをまざまざと見せつけられました。

またクラスで原爆手帳を持っている人は? との問いかけに かなりの数の生徒が挙手をしました。常日頃なにごともなく付き合っている友だちも いつ影響が出るかわからないものを抱えているのだと思い知らされました。

もう一つは 爆心地近くの銀行の石の階段に座っていたと思われる人の影が 石段に焼き付いていたのを見たことです。投下から十数年が経っていましたが 街中の石造りの建物(銀行)の階段に座っていたと推測される人が 原爆による熱線を受けて瞬間に影となって閉じ込められたというか 黒い人影となって残っていました。朝の8時15分のことでした。一日の生活が始まっている時間ですから 多くの人が歩いていたでしょう。銀行の前を通るときは いつも手を合わせずにはいられませんでした。

今はもう77年もたって あの石段や人影を直接見た人間も ますます少なくなっていきます。私自身は戦争体験もありませんが 暑い夏になると原爆のことを思い 戦争はあってはならないと思い 今の日本はどちらを向いているのかが心配でなりません。 (石)IMG_0006                                   (白いサルスベリ)

 

仙台空襲の晩

私は今80歳なのですが 実際に戦争に遭遇した もう数少なくなった一市民として 私の出会った戦争についてお話ししたいと思います。

東北の街 仙台で空襲の被害を受けたのは私が3歳8ヶ月の時だったのですが その時期の他のことは忘れても 1945年7月9日の夜から明け方のことは覚えているのです。

焼夷弾が落ちてきて燃えさかる仙台の街中から山の方に一家で逃げたのですが 赤ん坊だった妹にいつも占領されていた母の背中に その夜はなぜか私が負ぶわれて逃げたこと 怖い状況なのにおかしいのですが 母の背中を独占できて嬉しかったのを覚えています。妹は叔母に負ぶわれ 兄は父に手を引かれて 6人でたどり着いた山の中の農家で 縁側に休ませてもらってご馳走になった茶碗一杯の甘酒が とても甘かったのも覚えています。当時甘い物などまったくありませんでしたから。

その夜 24万発の焼夷弾が仙台の街に落とされ 市街地・住宅地の2万戸が一晩で焼け野原となり1400名が亡くなったといいます。

陸軍第二師団が近かったので自宅あたりは丸焼けだったのですが なぜかうちは焼け残って そこに焼夷弾直撃で亡くなられた父の友人の遺体が畳に乗せられて運ばれてきました。その畳のヘリに白いウジムシがびっしりとついてうごめいていた情景・・・戦争というと 私はこのウジムシを思い出します。このようにまったく普通の市民が ある晩突然 空から落ちてきた爆弾で一瞬のうち亡くなりました。

また食糧難で 庭の雑草を食べるほど飢えていました。スベリヒユやアカザという雑草の名前を覚えました。手足はガリガリに痩せてお腹だけはぷくんと膨らんで私は シリア難民の栄養失調の子どもの写真のような状態だったと 後になって聞かされました。

毎晩空襲警報が鳴り 風呂屋へ行くどころでなく そこへ大量のノミ シラミ 蚊が襲ってきて 痒くて痒くてつける薬もなく掻きこわして体中膿だらけ・・・今の時代では 想像もできないような不衛生そのものの生活を覚えています。

空襲 飢え 不衛生・・・でもそれ以上に苦しかったのが心の面での孤立の恐怖でした。父はキリスト教の牧師でした。キリストを唯一の神と信じる父と母にとって 当時「現人神アラヒトガミ」と崇められ 生きながらにして神であった昭和天皇を礼拝しなければならなかったこの時代は 本当に辛かっただろうと思います。キリスト教会は特高警察の監視が厳しく 信者は教会から遠ざかり 日曜礼拝には特高警察だけが出席しているという異常な光景だったということです。地域の住民からは「耶蘇教の牧師なんか敵性思想にかぶれたアメリカのスパイだ」といわれ 我が家は地域から完全に孤立していました。父が取調べのため特高警察から呼び出され 父が戻ってくるまで母はずっと祈っているというような 不安で重苦しい空気が 私の幼少期を覆っていました。・・・戦争はほんとうにイヤです・・・IMG_0017

(可愛い実をつけた風船カズラ)

キリスト教の牧師の一家6人がどうやってあの戦争の時代を生き残れたのか 今でも時々不思議な気がしますが やがて敗戦となり 日本にもたらされた憲法で「思想信条の自由」「信教の自由」も規定され  父たちは救われました。私も「外国との紛争は武器ではなく 言葉で解決する」という9条の精神に守られて なんとか戦争をしない国で過ごしてこれました。

ところが2012年に「美しい日本を取り戻す」と言って第二次安倍政権が誕生し【戦争が廊下の奥に立っていた】という渡辺白泉の有名な川柳みたいな 軍事的な空気が漂いはじめました。私はひじょうに危機感をもち 安倍政権が言っている取り戻すべき美しい日本て何だろう 力は及ばなくとも日本の近現代史を学ばなければ と思いました。「近現代史は学校で一度も習ったことがないよね」と主婦仲間10人で話し合い 10年くらい前に日本の近現代史を学びはじめました。その会は今も続いているのですが 本・資料・DVD・パソコンなどを頼りに 明治維新はどのように起こったか 明治政府が富国強兵・侵略に傾いていった経過 どのように戦争が起こり アジア各地の戦場でどのようなことが行われたか・・  など 歴史書・戦記・手記・映画などから 目を覆うような 吐き気をもよおすような戦争の実相も学びました。その時 戦争というのは殺人 強盗 放火 強姦など重犯罪の塊なんだと感じさせられました。日本軍の戦争犯罪の犠牲になったアジアの人々は2000万人とも言われています。「美しい日本を取り戻す」というフレーズは 少なくとも私たちの近現代史の学びから理解できませんでした。

そして2015年9月 安保法制が安倍政権によって強行採決された日 私は終電の時間ギリギリまで国会前で見守りました。幾多の命を犠牲にした戦争のことを思い私は「戦争はやめて!」と叫びたい気持ちでした。攻撃されてもいない国との戦争に アメリカと一体化して自衛隊が武器を持って出ていくということなど 一見して明らかな憲法違反であることは 小学生でも理解できるのではないでしょうか? 裁判長、どうぞそこを正してください。  私たちは決して諦めずに この憲法違反を問いつづけます。

畳のヘリにびっしり張りついていたウジムシの話を つい何年か前に2歳年上の兄に話したことがありました。すると兄は「あの時は7月で暑くて遺体の臭いがひどかったから自分はヤマユリを何度も取りに行って たくさん摘んできてその周りに置いた。そして遺体を焼く薪を焼け跡で集めて運ぶ手伝いをした。そうやってご遺体を教会の庭で焼いたんだ」と話してくれました。思い出したくもない空襲から70数年もたって はじめて兄弟でそのことを話しあいました。

日本は平和憲法を今こそ生かして 平和を輸出する国であってほしい・・・戦争を実際に見た一人として つよく願うものです。                             (これは2021年秋の安保法制違憲裁判で市民の証言として話したものです)      (土)

 

 

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 やっと話せた!                                                                      (せせらぎに咲いた真夏のバラ)

1945年8月9日長崎に投下された原爆で 約一ヶ月後の9月6日に私の三番目の姉が亡くなったときのことをお話しします。

今まで あの時は大変だったね と姉妹で話すことはあっても 本当のことは言えないまま 心にたまったものに蓋をして過ごしてきました。今回 四番目の姉といっしょに いろいろ思い出しました。晩年になってから語り部として話すようになった人の気持ちがわかります。

私は長崎郡部の小さな村で 父は役場勤めという家庭の 女の子ばかり7人姉妹の末っ子として育ちました。当時私は6歳でした。母は忙しく働くばかりだったので 私は17歳年上の長姉を 母のように慕っていました。歌がとても上手だった長姉は 師範学校をでて学校の先生になり その後結婚して家をでたときには とても寂しかった。そして原爆で亡くなった三女・幸子姉も 長姉と同じように優しくて歌が上手で 長姉に憧れて学校の先生になりたいと思っていました。手が器用で洋裁和裁をする家政学校にしばらく通っていましたが やはり先生になりたいと言って長崎の師範学校に入り直し 1945年の夏には「来春から学校の先生になれる!」と希望に胸をふくらませていたところでした。

敗戦まぢかで 師範学校の生徒は勉強どころではなく勤労動員の毎日で 幸子姉は長崎の三菱軍需工場に兵器作りにかり出されていました。ほかの生徒は休みだったのに 体格がよいため選ばれて 8月9日は出勤していたそうです。

三菱の地下壕の工場で働いているときに原爆が投下されました・・・爆風で飛ばされたのか 気を失って 気づいたら芋畑で倒れていたそうです。頭の上を人が這っていた  喉が渇いてたまらず流れていた水を呑んだ・・・と。

学校から家に伝令がきて 両親は長崎に駆けつけ探しまわりましたが 多くの死体を運び出しているなか どうしても見つけだすことができず その日は帰ってきました。

幸子姉は芋畑から寄宿舎になっていたお寺にたどり着き 夜を明かし 次に日汽車を乗り継いでか?わからないが 夕方家にひとりでたどり着きました。「帰ってきたー!」「よかった よかった!」とみんな泣いて迎えました。姉は当時の制服 作務衣のようなモンペ服と 足には草履と下駄を片方ずつ履いて ヤケドも傷もひとつないきれいな姿でした。

長崎に二日目も探しにいっていた両親は 必死で探しても見つからず あきらめて帰ってきて姉を見て みんなで喜びあいました。

幸子姉は怪我もしていないしどこも悪く見えないのに 家に着いた翌々日から具合が悪くなりはじめました。被曝のあと喉の渇きにたまらず呑んだ水で内臓がやられたようです。

近所に被爆時に全身ヤケドをして 赤チンだらけで帰ってきた男の人がいて その人の方が姉よりずっと重傷に見えました。でも姉はどうしても力が出ない感じで 母はそれを見かねて「川に洗濯にでも行ってきなさい 元気が出るから」と言いました。私たちはいつも泳ぎにいく川に行って 洗濯したりおしゃべりしたり・・・IMG_0013

でも姉は だる~い と言って家に帰ると それっきりもう床に伏せて動けなくなりました。内臓が放射能にやられて すべてが腐ってしまったかのよう 意識がもうろうとしてきました。髪の毛がすごい勢いで抜けていきました。髪を整えてあげようとすると気がついて「(来春から)学校の先生になるから 髪には触らないで」と言って 抜ける毛をおさえました。意識がなくなったり戻ったり・・・気分がいいときは歌を口ずさんだりもしました。

医者は毎日往診してくれましたが なんの病気かもわからず何をしていいのかもわからず 母もおろおろしてしまい 祖母がずっと姉の枕元に座っていました。食事はもう受けつけず 畑の黄色いスイカをつぶしてスプーンで一口入れると 口の中はすっかり腫れあがり皮むけの状態でした。髪の毛は抜けおち 上から下から腐ったものが出て 病名もナシ。

亡くなる前には ときどき「信号が!」「光が!」と布団からパッと起きあがり 姉にとってピカドンの光の印象がどんなにか強かったのだと思いました。

「仏様に参りたい 次の部屋まで連れてって!」と言って仏様に参りました。父には「うちは女の子ばかりで 御国のためになれないって言ってたけど 私が三菱の兵器工場で働いてたんだから うちもお国のためになったでしょ」と。父は泣いて なにも言い切らなかった。もう誰も なにもしてあげることはできませんでした。 

幸子姉は戦没者ということになり 戦死した兵隊さんたちといっしょに 村で葬式をあげてくれました。師範学校の同級生たちは 姉が体格がいいと言われて選ばれ 自分たちの身代わりになって当日出勤してくれたことを ずっと長く心にとめて 闘病中も毎日 また忌日には50回忌まで欠かさずにお参りに来てくれました。

原爆によって 長崎は草木も生えないだろうというほどに壊され 姉は教師になるという夢をうばわれました・・・長崎の地にキョウチクトウはふたたび咲きはじめたけど・・・姉は帰ってきません。たったひとつの命だけど 姉を想うと遠い6歳の記憶がよみがえり 胸が張り裂けそうになります。                                  (KH)

 

子供の頃の戦争のこと                  (せせらぎ遊歩道のサルスベリ)

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カーテンをあけて 今日一日元気で過ごせるよう体内時計を整える。百日紅サルスベリの花が少しあざやかになってきました。なんと平和な朝なのか・・・と幸せを感じる一方 ロシアに侵略されたウクライナは 戦争のため人々や子どもたちは戦火にあい 平安な生活を奪われています。一日も早く終わらせて と祈るばかりです。

80年前 私が子どもの頃 日本もアメリカと戦争をはじめてしまったことを忘れることはできません。「欲しがりません勝つまでは」の合言葉 なんといっても食べるものは豆カス たくさん収穫できると植えられ見たこともないような大きさで美味しくないサツマイモ などがお米の代わりに配給され フスマのような団子入りスイトンをすすりながら 飢えをしのいだ時代でした。

戦火は激しくなり 空襲警報が出て 部屋の明かりを暗くしたり 防空壕に避難したり 生きた心地のしない毎日でした。ある夜逃げる途中 私は家族とはなれてしまい 夜でも真昼のように明るく照らす敵機の下に身をかがめて 防空壕に逃げ込んだ怖いことも思い出します。近くの寮に焼夷弾が落とされて 青年が何人も亡くなりました。 

そんななか小学校の3年以上の生徒は疎開するようになりました。田舎に親戚のない私はやむなく集団疎開することになり布団を担いで 場所は豆腐料理が有名な大山へ行きました。ノミとシラミに苦しめられた生活しか憶えていません。いま考えても あまりに不衛生なことで 戦後になってもしばらく布団から退治できず困りました。 1644326406468-qx1ngqFbhE

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(大山にある川崎学童疎開児の記念像)             私の生家は焼かれた とうちから知らせがきました。火の粉が飛びちるなか 藁葺き屋根の家は焼け落ちてしまったと。近所に兵隊さんが駐留していましたので 当座必要なものを運び出してくれて 助かったと言ってました。

家族は無事でしたが 幼い私がひとり生き残ってしまったら忍びない と思ったのか 敗戦を待たず理由を見つけて8歳上の姉が大山に迎えにきました。川崎大師の駅に降りた時 子どもの私は 自分が住んでいた家の方向はどちらかわからないほど いちめん焼け野原になって 驚くばかりでした。

戦争は絶対にしてはいけないのです。戦後 日本には平和憲法ができ 9条により戦争はしないという宝があります。しかし今 戦争を知らない政治家により この宝をこわそうとしている動きが見えます。   私のごく小さな体験を記してみました。             (三)IMG_0001

 私の戦争

あの土曜日にきた                                    あの日は土曜日でした。国民学校2年生の私たちは 帰り仕度をしていました。その時警戒警報が鳴りひびきました・・・が 私たちはちっとも慌てません。なぜなら毎日ラジオが報じる日本の戦況に安心していたからです。毎朝 軍艦マーチから勇ましくはじまる大本営発表のニュースでは 日本は連戦連勝で戦果はすばらしく 世界平和を目指して驀進中とのことでした。

土曜日のあの日 学校から帰宅すると 通信兵志願を目指して勉強中の従兄が家に来ていました。母は奮発してカレーを作って 私の帰りを待っていてくれました。そろそろ食料事情も厳しくなってきた頃で 私はおいしいカレーに大満足して 幸せ~~と大の字に寝ころがったり・・・と とても平和でした。そして何気なく縁側の廊下から空を見上げると 低空で飛んできた飛行機から ランドセルの中の筆箱より少し大きめの物体が落ちてきたのでした。なんの音もしなかったのに 数分後に家が揺れ 家がつぶれるのではないかと思うほどの大きな音がしました。

私と従兄はなにが起きたのかわからず その場にへたりこみました。近所のお母さんたちは外へ出て不安そうでしたが 話題は棚の物が落ちたというような話だけでした。警防団の人たちがメガホンで 家の中に入るよう叫んでいました。

急に外がざわつき 走る下駄の音 なにか叫んで走る人たち・・・何か恐ろしいことが起きているのではと 従兄は私の手を握り外へ飛びだしました。母も妹を背負って 近所の人たちが走る通りへ出ていきました。

そこで目にしたのは上半身血だらけの人 顔から頭から血が流れている人 手拭や風呂敷を包帯がわりにしている人 服の背中が裂けて血だか肉だかがベットリ 上半身のあらゆるところがそのような人々。その人たちはみな無言で どこを見ているのかわからないうつろな目 痛そうな顔もしていません。その数30名 いや50名と増え その行列は日本鋼管病院を目指して歩いているようでした。

日本は勝つと信じて普通に生活していた私にとって 戦争はあの土曜日からはじまったのでした。

それ以後 各家庭に防空壕を作ることが命じられました。でも住んでいた所(現在の川崎区)は埋め立て地が多いので 1メートルも掘れば水が湧きます。命令なので掘りましたが 私たち家族は自宅の押入れの上段に布団を積みあげ 下段を防空壕のかわりにしました。今思えば なんの役にも立たないのですが。

このような時でも 学校に行くのは楽しかった・・・戦争を忘れられたから。なのに毎日級友が2人 3人といなくなるのです。最初 先生は機銃掃射で亡くなったことを伝え 「敵機がきたら物陰に隠れて身を守るように」と話したのですが まもなくその話はしなくなりました。私たち小国民の戦意をそぐような話は禁じられたのではないかと思います。そのころからB29の飛来しない日はなく 午前 午後 夜と空襲のサイレンは鳴りっぱなしになりました。

そのころまだ2歳にならない妹が百日咳にかかり これといった薬もなく入院ということになり 母も付き添いました。私は急遽 群馬の母の実家に疎開することになりました。  田舎は食べるものもあり 空襲のサイレンは鳴りませんでしたが 8歳だった私は「川崎で母も妹も死んでしまうのではないか」と心配でたまらず 夕方になると涙が止まりませんでした。 

自分は川崎の戦火から逃れてきたけど あの土曜日に川崎の家で見た 上半身に怪我をした人たちはどうしただろうか。なぜみな上半身だけ怪我をしたのだろう? きっとあの人たちも私と同様 日本に爆弾など落ちるとは思っていなかった。全国民が大本営発表を信じていた。爆弾が落ちてきたとき ”あれは 何だろう” と立って見ていたのではないだろうか? 立っていたために爆風と飛んできた瓦礫で 上半身の怪我となったのではないだろうか?                   あの時代 私たちは大本営の情報を信じて生きるしかなかったのです。

 栄養失調と皮膚病(カイセン)で死んだ男の子                       私が田舎に疎開したあと 続々と疎開者は増えてきました。退院した妹を連れて母もやってきました。私たちは(親や兄弟を頼っての)縁故疎開だったので 貧しくとも住む所はありました。ところが住む所がなくて 山羊小屋に疎開してきた人がいたのです。

田舎の学校は正門はありましたが 校庭にはどこからでも入れたので 私はよく桑畑を走りぬけて学校に入りました。桑畑のところに山羊小屋があって 2匹の山羊がいました。ある日その山羊がいなくなり 小屋に床が張られ 入り口にムシロが吊るされ 人が住みはじめたのです。私はびっくりして 母に山羊小屋のことを話すと 母は「可哀そうに親戚もなく 遠いツテを頼りにここへ来たのだろう」と。朝は急ぐので桑畑と小屋の前をとおって学校へ行きましたが 帰りはその小屋の住人と会うのははばかられて 正門から帰りました。

数ヶ月たつと 住人は母親と男の子だということがわかりました。男の子は病気のため学校には来ませんでした。私は気になって ある日桑の実を摘んで両手に持ち おそるおそるムシロから顔を入れました。「桑の実だよ 甘いよ 食べて!」と はじめてその子の顔を見て びっくりしました。目は落ちくぼみ 頭や顔は皮膚病の白い軟膏が塗られて とても子どもの顔とは思えませんでした。

それからはおやつにもらった干し芋を 一つは残してその子に持っていき ザクロが色づくと「取ってはいけません」と札を下げ 熟れたらその子に持っていきました 私も食べたかったけど我慢して・・・

そしてある雪の日 ムシロがはずされ 気づくともう人は住んでいませんでした。母に話すと「死んだそうだよ 結核も患っていたので火葬にして母さんと東京に帰った。可哀そうだったねー」と。

戦地に行って戦って死ぬだけでなく 国内でこのようにして死ぬ人も大勢いたと思います。私は『火垂るの墓』を見ることができません 飢えても健気に妹を守るお兄ちゃんに 涙してしまうからです。戦争はほんとうにむごく なにも得るものはありません。

80年近く前に経験した戦争のことを思い出して書いてみました。反省と教訓が自分のなかにあります。それは大本営発表を信じきっていたことです 情報は極端に限られていました。

今は だれでも・どこからでも・どんな情報でも手に入れることができる時代。だから私たちは 真実はなにか・どの情報が本物か・どう行動するか を自分の頭で考える力を養う必要があると思います。自分の頭で考えて ふたたびあのような戦争を起こさない力になりたい とつよく思います。                                  (前)IMG_0008                                     (サルスベリの幹の樹皮がはがれ落ち ツルツルの木肌が出てきました。)