cocoせせらぎに暮らして
ある犬の老後 2021・7・17
今日は特別の体験をしました。勉強会のために月に一度訪れていたギャラリー コロナ下で毎月集うことができなくなって みんな集まったのは久しぶりのことでした。
ギャラリーの女性オーナーがお茶を入れてくださりながら「ちょっと 犬 連れてきてもいい?」と言われました。イヌ・・・? なんのことかわからない私たちはキョトンとしていたのですが まもなくオーナーのうしろから大きな犬が現れたのです。
ふつう犬はお客さんと見ると 跳びまわったり 舐めたり 撫でてもらおうと体をすりつけてきたり 吠えたりじゃれたり いそがしいことこの上ないのですが・・・現れた白? ベージュ? のラブラドールレトリバー その姿はふつうの犬の騒がしい様子とは全くといっていいほどちがって オーラを感じさせる静かさ。私たちはこの気品のある犬の登場に一瞬圧倒されて 気安く撫でてはいけないように感じたのです。
「この子はね 盲導犬だったの。10歳になって引退してウチで預かることに。。」との言葉に ア~ そうなんだ~ と一同 納得しました。
生後1年間パピーウォーカーに愛情いっぱい育てられ その後の厳しい訓練を2年ほど 適性のある犬だけがやっと盲導犬になり 目の不自由なパートナーの生活・仕事を誘導し 時にはパートナーの命を体を張って守る生活7~8年。もし飛行機に乗ったとしても トイレにも行かずパートナーの側に10何時間でもじっと座って動かないという盲導犬。今 年をとって引退して こうしてボランティアの家庭にひきとられ 老後を過ごしているというわけです。
オーナーによると 散歩中も電柱があればご主人を守って間に立つし 穴ぼこやマンホールがあれば必ず回りこんで誘導 ほかの犬と出会っても吠えたり 噛んだり じゃれたりなど決してしないとのこと。人間なら75歳だというおじいさん犬 優しい目をして静かに床に横たわっているのを見ていると 引退しても普通の犬に戻れないのが盲導犬なんだなぁと 尊敬のような気持ちと 犬本来の遊ぶ生活ができたらなぁという感じも・・・
私たちは生きて行くために 給料をもらうために 職業人としてたくさんのことを身につけなければなりませんでした。技術的な訓練を受け その職業なりの倫理観を身につけ 集団になじみ ときには言いたいことも我慢して。鎧でガードした自分を自分でないように感じることもありました。cocoせせらぎの10人はみなそのような職業人でした。でも引退した今 幸せなことに仕事のなかで身につけたものをサラリとを脱ぎすてて ふつうの人 なんでもない人として自由に生きています。
ところが盲導犬だった”彼”はいつまでも身につけた鎧を脱ぎ捨てることができずに 高僧のように尊厳 誇りもそのままに老後を送っています。ときには吠えたりじゃれたりしてもいいのに・・・
暑い日で ひんやりした床に体を横たえる”彼”のそばに行って 思い切って撫でてみました。「えらかったね~ 疲れたでしょう」「いい子だね 頑張ったね」とみんな口々に褒めると 人間の言葉をずいぶん理解できるらしく 大きな尻尾をバタンバタンと床に鳴らして喜びました。(R)
朝からあまりに暑くて食欲がでません 近所の農家さんの採りたてトマトの皮をむいて塩をかけ キュウリは味噌をつけて丸かじり オクラはマヨネーズで。 手作りフォッカッチャといっしょに豪華(^^)v?な朝食!
I さんの思い出 2021・8・1
慶應大学 SFC 研究所のお二人がグループリビングという暮らし方の研究のためにインタビューにこられた時 居住者同士のケアについて私は I さんとの生活をかいつまんで話しました。「それはとても貴重な体験ですね。他では経験できないことだと思います」と二度も言われたことで それまで特別なこととは思っていなかった私は ちょっと意外で・・・でも認知症を理解していくためには大切なことだったのかもしれない だったら今のうちに思い出すことを記録しておこう という気持ちになりました。
I さんは2015年にせせらぎに入居し 2019年2月に退去。3年数ヶ月ここで暮らしたことになります。最初は認知症専門のグループホームに入る予定だったのが その施設の方が I さんならまだ十分cocoせせらぎで過ごせるのではないかと紹介されて ここに引っ越してきたということでした。
私は2016年に入居したので I さんとのおつきあいは2年数ヶ月。私が入った頃 I さんはもうここでの生活にだいぶ慣れて 一人で昼食を買いに出かけたり 月に一度は文学の会に参加するのだと言って いそいそと出かけて行かれてました。でもここでの生活で親しい方はいないようで 聞かれなければなにもしゃべらず そーっと出かけ そーっと帰ってくる・・・最初私は失礼ながら「幽霊みたいな方」と思っていました。
でも夕食時にお会いすると健啖家で よく食べよく飲み 私より7、8才年上なのにずっと元気で シワひとつないお肌はつるつるでした。私は思いきって話しかけてみました。
「小説を書いてらっしゃるって伺ったんですけど どんな小説ですか」「うーん いろんなのよ」「どういうところに発表してらっしゃるんですか」「横浜に本部のある同人誌」「読ませてもらえますか」・・・ということで見せてくださったのが 教員をしている時の自閉症の生徒さんとの交流 自分の病気とそのことで破談になった彼のこと シベリアに抑留される途中に中国で亡くなった叔父さんのこと・・・三つの短編でした。自分の歩んできた道を正直に 誇りをもって書いておられ I さんは誠実で芯のある方だということがよくわかる短編。偶然にも同じ屋根の下で暮らすことになった I さんに尊敬の気持ちがめばえ 少しずつ I さんとのおつきあいがはじまりました。
軽い認知症とは聞いていたのですが 知識のなかった私には I さんが無口なのは「また小説の一節でも考えてるのか」くらいにしか思いおよばず 話しかければゆっくりした口調で一生懸命答えようとするし・・・認知症なんてそっちのけで暮らしていました。 一日置きに大風呂にいっしょに入りました。「今日はカフェにきた子どもたちが可愛かったねー」「昔は子育てしながらの仕事で ほんとに大変だった。自転車に二人の子を乗せて 別々の保育園に送り迎えしなければならなかった」とか 誕生日の夜には「あー、もう84才だって! あなたは若いけど(ちっとも若くない!)年取るってたいへんよ」 風呂の中で I さんはなかなか雄弁でした。政治の話にも興味がありました。
体を動かすことも好きで 体操に参加したときには体がしっかり動くし「卓球しない?」と誘いに行くと「卓球ね!」とニコッとうれしそうに出てきました。高校の頃に先輩が教えてくれたそうで とても上手。強い球を打てるのに けして私に対してスマッシュで打ち返すことをしない気遣いの人でした。 夕食後には二人でよく せせらぎ遊歩道の散歩に出ました。川風が気持ちよく 足の丈夫な I さんはけっこうな距離でもよく歩き 遊歩道半ばに設置されてある大型スベリ台まで行きました。夕闇の頃 遊んでいた子どもたちも家に帰って 誰も見ていないのを確かめると2メートル半くらいの高さまで太いロープを伝ってよじ登ると キャーっと言いながら幅広のステンレスの斜面を滑りおり「これがホントのお転婆ー!」と二人で大笑い。ときには一番上に二人で陣どって 月をながめながら童謡を歌いました。
「若いころ歌った歌をうたいたいわ」と I さんが言うので 読みやすい大きな字で歌詞集を作り 夕食後にほかの方もさそって歌いました。童謡・唱歌・歌曲・フォークソング・流行した歌など I さんはよく覚えていました。十八番は「四季のうた」 長く盲学校の教師をしていた I さんは みんなにこの歌の手話を教えてくれました。
cocoせせらぎで月に一回開いていたカフェには 高齢者ばかりでなく幼児連れの若いお母さんもよく来ていたのですが 子どもたちに絵本を読んであげたり 赤ちゃんをあやしたり 小さい子どもたちのペースに合わせておもちゃで遊んだり・・・さすが盲学校幼児部の先生 自分も楽しみながら2時間フル活動でした。
「お昼にスパゲッティを作ったから一緒に食べる?」と誘うとうれしそうにやって来て「おいしいわ~」と言って食べる日もあったりして おつき合いして一年もたつと おたがいの部屋を行き来することも多くなっていきました。ところがある昼時に 私の部屋にとても困った顔でやって来て「昼に食べるものがないの お金がないので買いにいけないの」と言ったことがあり はじめてあれっ? お金の管理が・・・なんかおかしいな と思いました。
介護認定をもらっていて 週一で生活支援のヘルパーさんに掃除と買い物をお願いしていましたが デイサービスもすすめられて行ったところ どうも合わなかったらしく「もう行かない」の一点張りでした。行きたくないのに無理して行かなくてもいいんじゃない と私も思ったのですが この時少しずつでも介護の範囲を増やすことを勧めていれば 後の対応もちがっていたのかもしれないと・・・ それは 今になって思うことです。
お会いして2年くらいたったでしょうか I さんは楽しみにしていた文学の会にも行けなくなってきました。 同じころ I さんの隣の部屋の方が「ベランダで1ヶ月も洗濯物を見てないけど 洗濯してるのかしらね」と言われ そういえば同じブラウスを何日も着ていることがあるな と気づきました。 I さんの部屋に行ったとき 洗濯カゴを見ると空っぽでした。「 I さん 洗濯する?」「うーん いいの」 洗濯場に行くのをとても怖がっていました。人と会うのがイヤだったようです。「一緒に行こうよ」とちょっと無理にさそってみると 意外にもあっさり「うん」と言って洗濯物をまとめました。それからはよく一緒に洗濯場へ。干したり取り込んだりたたんだりは普通にできましたが それをタンスにしまった時びっくりしました。上着 下着 夏物 冬物がすべて一緒くたで 適当にあいた所につっこんでいたのです。着たいものを探すためか 中はぐちゃぐちゃになっていました。認知症というのは こういうことがだんだんできなくなるんだ と認識しました。セーターなどの冬物は袋に入れて別の所にしまい タンスの引き出し一つ一つに下着・ズボン・ブラウスなどとラベルをつけて分類してしまえるようにしました。
せせらぎでの最後の2ヶ月 夕食に出てこないため 次第に呼びにいく回数が増えていきました。携帯電話の目覚ましをセットして食事時間を知らせるようにしてみたのですが うまくいきません。壁にかけてある薬カレンダーの曜日ごとのポケットに薬がちゃんと入っていなかったり 逆に昨日のポケットに薬が残っていたり・・・薬の管理ができなくなってきました。 薬をきちんと飲まないためか 眠る時間が昼夜逆転して 昼間に部屋を覗くとベッドでしっかり眠っていたり 夜よく眠れなくて「変な夢を見たの こわい」と言ったり・・・
だんだん生活が難しくなって ライフサポーターさんが介護の見直しを考え 介護事業所と家族の方との話し合いをセットしました。私も参加するようにと言われ 話し合いを聞いていました。「週二回のデイケアと週三回のヘルパー生活支援」という介護プランを説明するケアマネージャーさんの話をじーっと聞いていた I さんが とても真剣なこわい顔で「どうして私がこんなこと必要なんですか? 私はこれから勉強会をするので忙しくて そんな時間ありません」と強い口調で言いました。 話し合いの後 ご家族やライフサポーターさんが「せせらぎにいるためには 介護のヘルプを増やすことがどうしても必要だ」と I さんを一生懸命説得したようです。
I さんのプライドがだんだん傷ついてきました。自分のどこが悪くてみんなは介護を増やそうとしているのかと 一人で必死で考えたようです。「自分は認知症ではない 障害者でもない 老害者だ」と言いはじめました。小説を書くくらい言葉にこだわっていた I さん 老いたことで人に迷惑をかけていると思い それを「老害」という言葉であらわそうとしたようです。そして「老害」と大きく書いた紙を持って私の部屋に来て「私の老害のせいであなたにも迷惑をかけてしまった」と言います。一度言ったことをすぐに忘れるのか 何度も何度も私の部屋をノックして また電話をかけてきて 同じことを言いつづけました。外出中には私の部屋の前で 老害についてずっと喋っていたそうです。今までの姿とちがい I さんが別の世界に行ってしまった人のように思われて なんか怖くなった私は部屋の灯りを消してドアをロックしてしまいました。今思うとほんとに申し訳なかったです。
その後パニックのような状態になり ご家族も来て救急車を呼んだのですが 強い力で拒否し 2度も救急車に帰ってもらいました。最後はご家族が力づくでタクシーに乗せ 緊急入院しました。その後 I さんとは会っていません。退院されたあと グループホームで落ちついて過ごしていると聞いています。
なるべく長くcocoせせらぎで過ごしたいと言っていた I さんだったのに 認知症の進行を認識できないまま 私はぼーっと I さんと過ごしてしまいました。 認知症に関して知る 病気の進行にともなった対応を知る プロの介護に任せることと身近な人がヘルプできること グループリビングの居住者同士のケアについて などなど学んだことは多かったし もう少しいい対応ができなかったかと悔やむことも多かったのです。 I さんのことがあってから 認知症についてcocoせせらぎ全体で考えていかなければならないと みな思うようになりました。
昨年 川崎市の助成があって「認知症を学ぶ」という講演会を企画しました。 そこで 高齢になればだれでも認知機能が老化すること 知識と思いやりがあればこういう所でも一日でも長く暮らせるのではないかということも学び 限界はあるけどせせらぎもそういう所を目指したいね と話しあいました。
もし I さんにちゃんと対応できていたら と想像することがあります I さんは今もせせらぎで よく食べしっかり運動して過ごせていたかな・・・ (R)