cocoせせらぎに暮らして 2021・11

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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ブローチにしたいような紅葉した葉っぱ

cocoせせらぎに暮らして                      2021・11

生いたち

私は1940年1月 岩手県一関市で 6人姉妹の次女として生を受けました。平泉中尊寺は隣町です。北上川が近いので 台風のたびに大水害に見舞われ 一階の天井近くまで浸水したことも度々でした。

中学一年のとき 高校一年の姉を頭に下は3歳の妹を残して 父は事故で他界。母は6人の子どもを抱えて 餓死させることもなく無事に育てました。祖母の代から田舎町で雑貨屋を営んでおり お客さんに助けられたと常々言っておりました。

私は高校卒業後 県職員となり県立病院の医療事務の仕事につき 24歳で上京後 病院や生協などで 一人娘を育てながらパートで働きました。

孫の出産を機に58歳で仕事を辞め 娘のところに毎日一時間かけて通い 保育園の迎えと夕飯作りに励みました。娘も 子どもたちから塾やスポーツ通いの前に「今日はなに食べるの?」と言われることもなく 仕事ひとすじに励めたのも 私の援助があったからと自負しています。

20年前に夫が病死して以来 新婦人の会に入り 原水爆禁止 憲法改悪反対 横浜市中学校の給食の普及などの署名活動に取り組んだり 母親大会にも参加しました。

数年前 新婦人の会の仲間から せせらぎに入居している I さんのところにお見舞いに行ってきたので、と せせらぎの資料をもらいました。いずれ私も考えようと思いましたが せせらぎでは夕食を一緒に食べるので娘のところに通っているうちは無理・・・と思っていました。ところがコロナが発生し 娘のところに行けないなか 私も80歳を過ぎ 毎日の生活が億劫になってきました。

7月はじめ せせらぎに問い合わせたら一部屋空いているとのこと 娘と見学して 私の他にもう一組待っている方がいるということで 翌日には入居の返事をいたしました。とにかく年金の額で支払いができることが決め手となりました。

40年住んでいた団地の3DKを手放しましたが 一部屋は物置にしたほど荷物で埋め尽くしせせらぎに持ってくるのは限られ 半分以上捨ててきました。

将来年金の額が下がらず 遺族年金と国民年金で支払いできるよう 私自身の健康に留意しながら頑張りたいと思います。                  (及)