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NPO法人cocoせせらぎ 第10回総会

2023・10・30

10月24日 記念すべき10回目の総会が開かれました。秋晴れの当日 入居者 運営委員 理事 スタッフなど 正会員26名中19名が集い 10時から始まりました。

2022年9月から今年の8月までの せせらぎでのすべての活動 会計の動きが報告され 多岐にわたる質問もあって活発に質疑が行われ 無事に今期の運営が了承されました。

日本全体の経済的な落ちこみと戦争その他による物価高という大波のなかで 小さな組織であるわがせせらぎも揺らぎ 特に食材費の面で再考を余儀なくされました。入居者会議で運営側と何度か話し合いをもち 5000円値上げということが総会前に決定されていたので 来年度の予算・計画も了承。また一年 このcocoせせらぎという大事な小船を新たな10年に向かってみんなで漕いでいこう! と思いを新たにしました。

出席の皆さんで簡単な昼食を共にし 今年の総会は終わりました。

 

10年間いつもせせらぎの中にいて 優しい笑顔で支えてくださっていた福井正子さんが 79歳になったので事務局長 ライフサポーターの役は降りて 理事 運営委員 ボランティアとしてこれからはせせらぎと関わりたい と総会で挨拶されました。

10年前に志をもって立ち上げられた前田由子前理事長のこと 諦めずに土地探しを続けられた白井理事・この場所をやはり志をもって提供してくださった秋元幸子さんのこと 棟上げ式の餅まきの話 入居者が4、5人という状態がつづいた当時の苦労 10人満室になって喜びあったこと・・・などなど福井さんは思い出を語られました。

この10年間 福井さんはいつも事務室のテーブルの向こう側から ふらっと立ちよった私たちに優しく話しかけ 気持ちを受け止めてくださいました・・・意見したり否定したりでなく受けいれる優しさをいつも感じました。福井さん 今日はいらっしゃるかな〜〜 といつも楽しみにしていました。これからもお元気な顔をたくさん見せてくださいね。スクリーンショット 2023-11-06 114104

理事の久保さんは 今年も体調に問題を抱えつつ そんなそぶりもなく颯爽と総会に参加してくださいました。「大きな手術を控えているけど 来年も無事だったら元気で参加しますよ」と言って帰られました。例年のように農園からのお土産でサツマイモをたくさん・・・調理スタッフの皆さんはそれを余すところなくメニューに生かし サツマイモご飯 大学芋 スウィートポテト お芋のリンゴ煮(入居者手作り)など 「食欲の秋」そのものの一週間を過ごさせていただきました。久保さん ありがとうございました。

↑  サツマイモがねずみに変身                                                                    (入居者・土)

せせらぎの仲間たち

「COCO せせらぎ」をご支援いただいている皆様

                             NPO 法人川崎北部グループリビング  理事長 酒井行夫

いつも「COCO せせらぎ」をご支援いただきありがとうございます。
2010 年 7 月に高齢期の生活を考えようとグループリビングの勉強会、設立準備会を始めて 3 年、高津区明津で素晴らしい地主さんとの出会いがあり、2014 年 7 月に「COCO せせらぎ」 をオープンする事が出来ました。
「自立と共生」を掲げ、高齢期に入った一人住まいの人達が、共同することで社会的なつな がりを持ち、きちっとした食事をとることで、いつまでも元気でいられる 10 名の住まいを目指 したものでした。
設立時の説明会では多くの方にご参加いただきましたが、実際は 4 名での船出となりました。 その後も入退去を繰り返しながら、2020 年 7 月に初めて 10 名満室になりました。
現在、入居者の方は皆いきいき生活して運営にも参加し、運営委員会に 2 名が入居者代表と して参加、その他にも小さな仕事を皆で行うなど、当初想定した通り 10 名程のコミュニケーシ ョンが良いと実感しているところです。その後も入居を希望される方が多く、現在入居予約者 9 名となっています。

運営母体として NPO 法人を選択したのは、継続性の問題からでした。人は年々年を取ります。NPO 法人も構成員が若返らなくては続きません。今年度は新たな理事 3 名に参加して頂 けることになりました。2 人はまだ 40 代でこれからを担っていって欲しい人材です。

前田さんも 90 才を迎え、理事長を退任され、私が新たな人材が育つまで理事長を引き継ぐことになりました。前田さんには副理事長として、まだまだ 「COCO せせらぎ」の為に力を出して頂けると思います。
コロナ禍の中、「COCO せせらぎ」も対外的な活動を制限される状態が続いています。実際 に活動できない中で、私たちの生活を知ってもらうにはどうしたら良いかと、2020年からせせ らぎに暮らして感じたこと、昔の思い出、これからのことなど、入居者やスタッフに自由に綴 って頂き、毎月ホームページに掲載してきました。2021 年 10 月には「グループリビングに暮ら して」として纏めたものを冊子に致しました。大変好評でしたので、2022 年 10 月に№2 を発 行致しました。
グループリビングという住まい方の選択肢は、これからの社会により必要とされています。  さらにこの運動を広げて行けたらと思っております。

cocoせせらぎホームページ  2023・2・28

cocoせせらぎホームページ     2023・2・28

春の足おと

寒くてちぢこまっていたのに 日射しが今までよりちょっと明るくて 外に出ておいで!と呼ばれているような気分になる日があります。                         cocoせせらぎの3階から南を見ると 神庭(カニワ)里山と呼ばれる丘陵が広がっています。2月 その里山が 春だよ! と言っているようなうっすらピンクに霞んだような色合いに染まってくるのです。それを見たとたん 毎年かならず口をついて出てくる歌が・・・

丘の日射しは 明るくて                                 雑木林の楢(ナラ)の芽が                                 あかくけむって見えるから                                春は ほら ほら もうすぐそこまで                           きているよ

東北大学教育学部附属小学校教師だった富田博*作詞 仙台の高校教師だった海鉾喜美*作曲の『春の足おと』という歌。

私は富田博先生がいらした附属小学校に敗戦2年後の1947年に入学し この歌をよく歌いました。校歌も富田先生が作詞された「夜明けだ夜明け 青いぞ空は」という素敵な校歌でした。    物資も食料もなくて 私はわら半紙の教科書と数本の鉛筆を 布製のうすいカバンに詰めて ゲタを履いて 雨の日はカサもなく風呂敷をかぶって通う やせ細った小学生でした。ノミ・シラミだらけだったので 全校生徒一列に並ばされて 頭から袖口から白い粉のDDTを噴霧され 栄養失調だったので肝臓ゼリーや虫下し薬が配られ 脱脂粉乳とコッペパンの給食も3~4年生の頃からはじまりました。アメリカ軍から下りてきたのか 切り干しリンゴなどという不思議な給食もありました。

学校には戦争から復員してきたばかりの先生もおられ 真っ赤な顔で大声で怒ると軍国兵士だった面影が・・・なにしろ世の中は混乱していました。敗戦まで陸軍の末端組織に組み込まれ軍国主義一色だっただろう小学校が いきなりアメリカ占領軍がもちこんだ民主主義というものに 必死で順応しなければならなかったこの時代。戸惑いながら新しい教育のあり方をさがしていたのでしょう。この国立の教育学部附属小学校の全生徒は 毎月のように知能検査を受けたり脳波を取られたりと かなり実験的でした。

そんな学校の国語教師だった富田先生は 多分リベラルな優しい考えの持ち主だったのではないだろうか・・・戦争中はなにも言えず苦しい思いをしてきたけど 民主主義の時代がやってきて 勇ましい軍歌調でもなく お涙頂戴の演歌調でもない 子どもが素直に晴れやかに歌える歌を・・・と 湧き出すようにたくさんの詩を書かれたのではないかと想像します。

学校がえりの つるつる雪みち 走ってかえろー 走ってかえろー 走ってかえろ

タ ラッタ ラッタ ラッタ ラッタ ラッタ ラッタ ラ                 カタカタ カバンが背中で鳴って クンクン子犬も尾をふって走る

何が起きたのかわからず大人になされるがまま 食べるものもなくやせ細った仙台の子どもたちに 富田先生は「戦争は終わって明るい時代が来たんだよ! 春がやってきたんだよ!」と伝えたかったのではないだろうか? 私たちは家でも学校でもこれらの歌を気分よく歌いました 作曲がまたとても歌いやすく 歌詞に合ったメロディーでしたから。

つらい思い出の方が多かった小学校時代でしたが 富田先生の歌が口をついて出てくると 不思議となつかしい気持ちで仙台を思い出すことができます。       (土)

 

 

せせらぎの春の兆し             

江川せせらぎ沿いの1月末 蠟梅が満開のお宅を見つけました。こんなにたくさんの花が咲いている蠟梅を見たことがないので もしかしたら別の花かも・・・

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今まで茶色一色だったのに 緑色の下草が生えてきた2月半ばのせせらぎ遊歩道

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河津桜の花芽が いまにも咲きそうにぷっくり膨らんでいます。IMG_00092月半ば 河津桜が開きはじめました。

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2月末 五分咲き?

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地面の上では野の花が開きはじめました。ホトケノザの花の一つ一つにかわいい顔が見えます。

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春一番にひらく野の花 クリスマスローズ

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COCOせせらぎ 2022.12

白い髪に

50歳を過ぎたころだったか 頭に白いものを見つけるたびに まるで仇のように一本一本抜き 「白髪だなんて・・・」と受けいれられない気持ちで染めることをはじめました。

退職した60歳のころ 一時染めるのをやめようかと迷ったこともありましたが まだまだ! と抵抗して 黒い髪のままいつの間にか80歳まできてしまいました。

 

それが去年くらいから なにか白い髪を自然に受けいれられる気がしはじめたのです。理由はいろいろありました。

70代はまだ若かった まだ虚勢を張れた というかがんばろうと思ったことを最後までがんばり 疲れて倒れこむけどすぐに起きあがり 倒れたことなど忘れてつぎへ・・・まだ体のなかのバネが効いていたのかもしれません。正直「後期高齢者なんて世間はいうけど 70代はまだ元気元気!」と反論したい気持ちでした。

ところが80の坂を越えたころから なにか変なのです バネが金属疲労でもおこしたように あれ? 私って起きあがれない・・・?と 倒れてしばし寝込むことも出てきました。

前のように ”倒れたことなど忘れてすぐつぎの行動へ”などということができなくなり もっとすすんで 倒れたことを忘れられず これからは倒れないようにしようと気をつけはじめ どんどん慎重になってきました。慎重になると つまり動きは遅くなり 動く回数も減り ゆるゆるノロノロ・・・ これはフレイルの入り口かな?

友だちが「80の坂はきついよ」と言っていたことが身に沁みました。最初は受けいれられず前のようにズンズン動き 寝込んでは80歳を自覚し・・・そんなことを繰り返しているうちに やっと”自分は老いの坂のつぎの段階に入ったのだ” と悟りました。なんでもゆっくりペースに そして力を抜くことを覚えた楽なペースに(脱力というのは意外と難しくて 抜こうと思ってできるものではありません)。

 

体も心もそのことを受け入れ そこでつくづく自分の顔を見ると 鏡の中には・・・?

柿が日光にさらされているうちにしぼんで干し柿ができあがるように 私も日々の生活にさらされているうちにずいぶんとシワが・・・できたら上等の干し柿のように 柔らかく甘くできあがったのならいいんだけど???

体も 心も 顔も もう黒い髪は似合わない。老いを素直にみとめ それにぴったりな白い髪になろう! 神さまが人間の最後の姿として与えてくださった白い冠 その姿であちらに行こう!

 

80になって考え始め 81の誕生日に決心 いま実行中のホワイトヘアー・プラン。

髪は額縁というけど・・・自分はどんな風になるんだろう 想像がつかず途中かっこ悪くて部屋に引きこもってしまうかな? いやいや きれいな色の帽子や かっこいいヘアバンドで楽しく過ごそう! などと思う毎日です。

美容院の方によると 完成まで一年半もかかるというこのプラン。半分は心配で でも半分は新しい自分に出会えそうで 楽しみです。           (土)

COCOせせらぎに暮らして 2022・12

cocoせせらぎに暮らして               2022・12

秩父に遊ぶ

 調理スタッフ、E.A。

絵に描いたような小春日和の中「ここせせらぎバスハイク」の一行14名は一路秩父へとマイクロバスを走らせました。私を含めここ二三年ほどコロナ禍で遠出もままならず、開放的な旅気分を味わうこともありませんでした。もちろん現在も「感染対策をしっかりして」という枕詞はつきますが・・・・・・・。

バスに乗り込むと、差し入れの朝食とおやつをいただき、旅気分全開で久しぶりの遠出旅みんな楽しんでいました

途中でトイレ休憩しながら峠を越えると、眼下に秩父の街並みが見えてきました。最初に訪れたのは四番札所金昌寺大きな山門と草鞋のお出迎えです。中に入ると大小さまざまな石仏が穏やかな顔で所狭しとならんでいました。古の人々は何をお願いしてこの石仏を奉納して来たのだろうかなど、思いをめぐらせながら参拝してきました。次に向かったのは西善寺。「コミネかえで」の大木がどんと天を突き破る勢いで枝を張り巡らせていました。樹齢六百年とか戦国の世を生きた人もきっとこの大樹を眺め、私達と同じように癒されていたことでしょうね

もう一箇所所訪れたのは「まつり会館」秩父夜祭で有名な山車傘鉾が展示してあり、大きな技術の高さ。歴史の深さに圧倒されました。これが実際に街に繰り出されたら、すごい迫力だろうなと想像を広げました。

もちろんお昼ごはんと温泉も旅のを楽しみの一つではありましたが、私は久しぶりの旅で日本の秋を満喫できました。計画してくださった皆さん、旅を一緒に楽しんでくださった皆さん、ありがとうございます。

COCOせせらぎ 2022/11

後期高齢者のお出かけ           cocoせせらぎ2022・11・15

 

「新大久保は日本の韓国よ」と韓国事情に詳しい T さんの話に

「行ってみたーい‼︎ 案内してー‼︎」とお願いして 今回の半日探訪が実現しました。

 

せっかく行くのだから夕食を食べたいね と相談して張りきって出かけました。

行程はバスで武蔵小杉まで 三田線で目黒乗り換え JRで新大久保へ そこから街を探索して 夕食後は東新宿駅まで歩き 副都心線で武蔵小杉にもどるルートでした。

 

後期高齢者4人のお出かけなので 当然土日は避けたのですが、新大久保の通りに立ったとたん 人の多いのにびっくりです。若い人が断然多く 迷子にならないように歩こうねと心掛けたものの人が多くて さっそく一人が見えなくなり電話するやら探すやら 大変な混雑でした。

 

歩きはじめると 通りに立ったまま なにやら食べている人を見かけました。

店の前に並ぶ人の列、人気のおやつとの T さんの説明に 私たちも並びました。『ホットク』という焼き菓子でした。焼きたての蜂蜜ホットクは 小腹がすいていたので美味しく 元気が出ました。立ち食いも苦になりません。

 

通りを歩きながらたくさん並ぶ店を覗き 狭い路地のイケメン通りに入りました。食べ物の店が多く 若者がお酒を飲んでいました。K popのショーが見られるという店を目指しましたが 残念ながら閉まっていました。

 

今日の目的地の一つ『高麗博物館』を訪ねました。ちょうど韓国と北朝鮮の絵本展開催中で たくさんの絵本に出会いました。韓国の歴史のビデオを観たり 絵本の説明を聞いたりしました。    高麗博物館の展示

 

次に立ち寄ったのは韓国市場です。野菜や肉、海苔、お茶、酒、餅、ラーメン、できあがった参鶏湯や豚足 海苔巻きなど韓国ならではの食材が沢山。4人で思い思いの買い物をしました。

夕食は 家庭料理が食べられるという T さんおすすめの『水宝館』に行きました。生マッコリも注文、料理は参鶏湯、海鮮チヂミ、キムチ盛り合わせ、焼肉などなど。

食事の途中で4人の若者が入ってきて イケメンぞろいだったので聞いてみると やはりK popグループでした。AIOSという名のグループで公演のハガキも貰いました。

 

いつもの生活を離れて刺激のある場所に来るのもいいなーと満足の半日旅でした。(石)

 

秋も深まり せせらぎ遊歩道で見かける落ち葉のきれいなこと。茶色くなってしまう前にとパチリと撮りました。下はノコンギクとホトトギスです。

 

 

 

11月8日の晩には皆既月食ショーを遊歩道を

歩きながら満喫しました。

cocoせせらぎに暮らして      2022.10.25

cocoせせらぎに暮らして           2022・10・25

巾着田の曼珠沙華  見物

暑さ寒さも彼岸までといわれるなか 9月中旬を過ぎても真夏日がつづき 9月の三連休は台風に見舞われ 天候不順がつづきました。ところが予定の9月27日は快晴となり 私たちせせらぎの仲間3人は 埼玉県日高市の巾着田を目指してバスで出発しました。

JR南武線新城駅から乗りこみ終点立川駅まで そこから青梅線・八高線・西武池袋線と 4回乗り換えて 高麗駅まで約3時間かかりました。平日ということもあり 電車は空いていましたが 高麗川沿いの河原には遠足の子どもたちやグループが多くいて 賑わっていました。

昭和40年後半ごろ 高麗川の巾着田の用地を日高市が取得し 藪や竹林 葦に覆われた現地を整地したところ 9月ころ一斉に曼珠沙華が咲きそろったそうです。高麗川が蛇行した形が〈きんちゃく〉に似ていることから巾着田と呼ばれるようになり 河川の増水によって流れてきた漂流物の中に混じっていた球根がここに漂着して 根づいたものと言われています。

秋の彼岸を少し過ぎていましたが 500万株の曼珠沙華が赤いじゅうたんを敷きつめたように咲き渡り 樹木の間から差しこむ陽に照らされ キラキラと光り輝く様はほんとうに見事でした。

しばらく散策し テントの下で焼きソバをいただきました。入園料が500円かかりますが 広大な公園の整備のためには納得でした。帰り道に農家さんが野菜や栗を売っており 迷わず栗を購入。3人からのお土産として持ち帰り 冷凍庫にしまいました。

3日後に保管しておいた栗を皆で手分けしてむき スタッフさんに夕食の栗ごはんを作ってもらい いただきました。年に一回の栗ごはん きっと長生きできるかな~と思いながら・・・

元気に12000歩の散策! 翌日足の痛みもなく ウォーキングをつづけていける幸せに感謝しています。                           (及)

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cocoせせらぎのバーベキュー・パーティ

コロナも一時おちついて 私たちもホッと一息。そうだ、以前やったことのあるバーベキューをまたやろうよ ということになりました。10月5日の夕方から食堂と裏庭に20人が集まりました。                                          買い物担当 仕込み担当 焼き方担当 食べる専門の人もいて・・・それぞれ楽しい2時間を過ごしました。炭火がおきてきて そのうちカッカと燃えさかり そしてだんだん灰になって白く消えていく。石油ストーブやエアコンでは味わえない 体の芯まで温めてくれる炭火を久しぶりに味わいました。

 

 

 

 

 

cocoせせらぎホームページ   2022・9・20

せせらぎにもコロナが・・・      cocoせせらぎホームページ 2022・9・20

「中国でよく分からない感染症が発生した」というニュースを聞いたのが 2019年のお正月の頃でした。横浜に停泊していた豪華客船ダイアモンド・プリンセス号から日本にも広がりはじめて 死者が増えていき・・・コロナの正体も対処法もよく分からないまま。

第1波といわれる頃には 病床ベッドが足りない! 人工呼吸器が足りない! 志村けんさんもエクモを使ったのに亡くなった! 県を越えて移動しないように! などなど怖いニュースに振りまわされていました。エクモって何?などと言いながら  なにしろ手洗い・マスク・換気に気をつけ 手が触れそうなところをぜんぶ消毒して回ることで 日々の不安を追いはらっていました。

2波 3波・・・寄せては返すコロナの波にもまれつつ第7波まで 私たちはなんとか奇跡的にコロナにかからずにここまでやってきましたが ついに。誰がなってもおかしくないね と私たちは話しあっていましたので そんなに慌てずに対処できたと思います。

cocoせせらぎとして コロナ感染の記録を残しておこう ということでご本人とライフサポーターさんに 文章にまとめていただきました。IMG_0026

コロナ感染記

*7月29日の朝「前夜から微熱(37.5℃)、血中酸素97(正常値)、軽い咳。呼吸障害や頭痛などなし」とライフサポーター Fさんに電話連絡した。理事長と副理事長にもライフサポーター から連絡。                                          *ライフサポーターSさんが購入してきてくれた抗原検査キットで、本人と長女(父と一緒に法事出席するため、たまたませせらぎに宿泊中だった)が検査した結果、本人は強い陽性反応。長女は陰性だったが、濃厚接触者となる。                             *かかりつけ医であるしまむらクリニックに電話をして状況を話すと、発熱者は外来に来ないようにと。後刻、保健所から症状聞き取りの電話があった。食糧支援を依頼した。(2日後に宅配で食品数種類とトイレットペーパーなどの日用品がかなりの量 届いた。)
*川崎市新型コロナウィルス感染症コールセンターに電話したが連絡がつかなかった。

*酒井運営委員からの通達が入った。                           ①入居者は3日間は基本的に部屋から出ないように。                     ②せせらぎで行う催しはしばらく様子をみる。                       ③スタッフに連絡をとる。                                ④調理スタッフには通常通り作ってもらい、それを順次取りに行き、個食とする。
⑤食器の片づけも順次おこない、基本的に集まらないようにする。              ⑥本人と長女は、個室で一緒に食事をする。                        (食事のお盆は隣室のNさんが個室ドア前に届け、ドア前に出された食後の食器もまたNさんが洗って乾燥器に入れる、ということをお願いした。)                      *運営委員の木村さん夫妻から助言をいただく。                      ①長女の洗面やトイレ使用は本人の部屋で。                        ②洗濯はいつも使用している洗濯機で。                          ③浴室は最後に使用する。                                ④部屋の換気は頻繁に行う。

*川崎市保健所感染対策課との電話相談では、本人は80歳で高齢者なので、重点患者として登録されているとのこと。毎日、聞き取り調査の電話があった。連日軽い症状で推移しているが、もし容体が急変した場合は救急車を呼ぶようにとのことだったが、そこには至らず。発症後7日目が堺で、快方に向かうか悪化するかの分岐点になるという。                   *感染者本人の隔離期間は症状が出た日から10日間で、8月7日までだった。         *濃厚接触者隔離期間は、7日から5日に変更されたそうで、長女の場合は8月11日に解除された。

2週間余りの間、私たち父娘の生活を支えてもらいました。誠にありがとうございました。なお、娘より「父と私に対するみなさんの温かい応対をいただき、かねてより父が申しているグループリビング運営の素晴らしさに感動しています。せせらぎにはまた来たいと思います」との言葉がありました。                                (池)IMG_0006 

ライフサポーター として

7月末、入居者の一人の方がコロナにかかりました。                    発症の2日前、猛暑のなか歩いて30分くらいかけてお帰りになったのがとても気になっていました。いつもとはちがい、とても疲れた顔をされていました。                 大丈夫かなぁと思っていたのですが、その次の夜、事務局長のFさんから電話があり、その方が発熱し、喉の痛みもあるとのこと。連絡をもらったのが夜だったのでなにもできなかったのですが、翌朝せせらぎに行くまでに何ができるかを、私は考えていました。

まず、コロナであるか、そうでないかをはっきりさせないと、入居者のみなさんの不安につながると思い、薬局が開く時間に電話で抗原検査キットがあるかを5軒ほど聞きました。コロナが増えていて、ほとんどキットが売りきれ状態・・・1軒だけ売っていると聞き、すぐ買いに行きました。せせらぎに着いてすぐ検査を実施すると陽性でした。

さてこの後の対応どうしたらいいのかと・・・せせらぎは老人福祉施設ではないので厚労省の指導・支援もなく、いろんな事がわからないことだらけ・・・そしてコロナ発生の頃とは国や保健所の対応がかなり変わっていましたので、どうしていくかを、入居者の運営委員Tさんとすぐ相談しました。まず入居者全員の方に現状を把握して貰い、どうするかを入居者みんなで話し合いしましょうとTさんから提案があり、サロンにみんなで集まりました。

一番の問題は、みなさんの夕食でした。もし夕食を作ってもらえないとなると、みなさんにはお弁当を買ってくるという対応になる予定でした。が、今はだいぶ制限がゆるくなっていることもあり、調理の方が入居者の方と接しないように調理をし、調理が終わったら運営委員のTさんに連絡、Tさんから入居者に順々に連絡。そして各自が部屋で食事をとれば接しないのでは という意見が出ました。調理の担当の方に連絡を取ると、協力して頂けると了解して貰いました。みなさんホッとされていました。

ライフサポーターは専門的な知識はなく、今後どうしていくか・・・運営委員のなかに奥様が保健師さんという方がいらっしゃったので、その方に連絡をすると、とても適切なアドバイスを頂き、結果コロナは誰もうつらずに過ごすことができました。

再度入居者のみなさんに集まって頂き、話し合いを設けました。運営委員の方が入居者&スタッフの抗原キットを確保してくださり、調べてみると全員が確実に陰性で、みなさん安心することができました。

最初に入居者の方の異変に気づいてくださったのは夕食担当の調理の方でした。普段から食事の様子を見てくださっていて、普段とちがう様子を事務局長に伝えてくださったことだと思います。せせらぎに関わる人たちの報連相(報告・連絡・相談)、チームワークのすごさを実感しました。

日頃のこまめな感染対策や4回目ワクチン効果などもあり、二人目感染が出なくてホッとしました。この間、数回にわたる入居者の話し合いがもたれ、そこで「何を手伝えばよいですか」などの声がだされ、それぞれが出来るところでの応援体制ができ、入居者、スタッフの協力で乗り越えられました。元気な高齢者のシェアハウスならではの2週間が過ぎ、ご本人の快気祝い、濃厚接触者だったご長女とのお別れをかねて、夕食会で乾杯をしました。「自立と共生」のせせらぎらしい助け合いができ、嬉しかったです。                               今回の体験から、せせらぎの中でも適宜に相談できるアドバイサーが必要ではないかと思うのと、保健所、医療機関の対応がもう少しスムーズにできたらよかったと思います。                              ライフサポーター (佐)

 

~ ~ 秋の気配が ~ ~

あんなに暑かった夏が ふと気づくともう秋風になり いつの間にか蝉の声が聞かれなくなっています。せせらぎ遊歩道の夜の散歩に出ると 秋の虫の声が繁く 小川では魚が水音をたてて・・・めぐまれた所にいるんだなぁとしみじみ・・・                       植物も夏から秋への模様替えです。近隣で撮った最近の花の写真を並べてみました。

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夏の終わり エノコログサ

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ネムの花 夢の中のようなIMG_0012

つぎつぎと花を咲かせるキキョウIMG_0013

たくさん実をつけたフウセンカズラから 来年のために種を取りましたIMG_0011

春には真っ白な花を咲かせるのに 秋になると真っ赤な実をつける不思議なヤマボウシIMG_0021

色っぽい芙蓉の花IMG_0009

街中ではめずらしいカラスウリの花 繊細なレース編みのようIMG_0019

たわわに実をつけたムラサキシキブ ひと枝いただいてきました。IMG_0021

にぎやかな街なかにも中秋の名月が          (土)

 

 

cocoせせらぎホームページ 戦争特集 2022・8・15

cocoせせらぎホームページ                  2022・8・15

  戦 争 特 集

終戦記念日が今年もめぐってきました。

cocoせせらぎに入居している平均年齢80歳くらいの私たちは 多分若い世代が感じるのとはちがった気持ちで この日を迎えます。それは幼いながらその戦争を実際に経験したから。

しかし今まで その体験を話すこともなく過ごしてきました。もし今話さなかったら 私の命が消えると同時に私の経験も消える・・・今話しておかなかったら その経験は無かったことになってしまう 若い人に伝えたい!・・・と考えて 何人かの方に「戦争の頃 どこにいらしたんですか」と声をかけると 思い出の糸がほどけるように出てきました。

今回5人の方の経験をホームページにまとめました。

終戦時に何歳だったかによって記憶の鮮明さにちがいがあります。(石)さんは終戦の時にはまだお腹の中 (土)さんは3~4歳   (KH)さんは6歳 (三)さんは9歳 (前)さんは12歳 それぞれの年齢での戦争を 思い出すままに書いていただきました。なお(KH)さんは入居者の友人 入居を考えてせせらぎの見学にも来られた方です。IMG_0005                      (せせらぎ遊歩道 ピンクのサルスベリ)

暑い夏 私の広島

私は第二次世界大戦敗戦の年 昭和20年12月に大阪の郊外で生まれました。

8月6日に広島に 9日には長崎に原子爆弾投下 15日に敗戦となりましたが 私はまだ母の胎内にいました。

広島には縁もゆかりもなく 原爆については教科書でキノコ雲の写真を見たことがあるというくらいで なんの知識もありませんでした。

中学2年の夏に 父の転勤先である広島市に引っ越し それからの3年間の広島での生活で 今も私の反戦への思いを強く方向づけた経験があります。

その一つが転校先の中学校での出来事です。クラスメイトに小頭症の男の子がいました。その人はときどき授業中にもてんかん発作を起こしていたのです。

担任の先生から胎内被爆によるものだと聞き びっくりと同時に原爆の恐ろしさをまざまざと見せつけられました。

またクラスで原爆手帳を持っている人は? との問いかけに かなりの数の生徒が挙手をしました。常日頃なにごともなく付き合っている友だちも いつ影響が出るかわからないものを抱えているのだと思い知らされました。

もう一つは 爆心地近くの銀行の石の階段に座っていたと思われる人の影が 石段に焼き付いていたのを見たことです。投下から十数年が経っていましたが 街中の石造りの建物(銀行)の階段に座っていたと推測される人が 原爆による熱線を受けて瞬間に影となって閉じ込められたというか 黒い人影となって残っていました。朝の8時15分のことでした。一日の生活が始まっている時間ですから 多くの人が歩いていたでしょう。銀行の前を通るときは いつも手を合わせずにはいられませんでした。

今はもう77年もたって あの石段や人影を直接見た人間も ますます少なくなっていきます。私自身は戦争体験もありませんが 暑い夏になると原爆のことを思い 戦争はあってはならないと思い 今の日本はどちらを向いているのかが心配でなりません。 (石)IMG_0006                                   (白いサルスベリ)

 

仙台空襲の晩

私は今80歳なのですが 実際に戦争に遭遇した もう数少なくなった一市民として 私の出会った戦争についてお話ししたいと思います。

東北の街 仙台で空襲の被害を受けたのは私が3歳8ヶ月の時だったのですが その時期の他のことは忘れても 1945年7月9日の夜から明け方のことは覚えているのです。

焼夷弾が落ちてきて燃えさかる仙台の街中から山の方に一家で逃げたのですが 赤ん坊だった妹にいつも占領されていた母の背中に その夜はなぜか私が負ぶわれて逃げたこと 怖い状況なのにおかしいのですが 母の背中を独占できて嬉しかったのを覚えています。妹は叔母に負ぶわれ 兄は父に手を引かれて 6人でたどり着いた山の中の農家で 縁側に休ませてもらってご馳走になった茶碗一杯の甘酒が とても甘かったのも覚えています。当時甘い物などまったくありませんでしたから。

その夜 24万発の焼夷弾が仙台の街に落とされ 市街地・住宅地の2万戸が一晩で焼け野原となり1400名が亡くなったといいます。

陸軍第二師団が近かったので自宅あたりは丸焼けだったのですが なぜかうちは焼け残って そこに焼夷弾直撃で亡くなられた父の友人の遺体が畳に乗せられて運ばれてきました。その畳のヘリに白いウジムシがびっしりとついてうごめいていた情景・・・戦争というと 私はこのウジムシを思い出します。このようにまったく普通の市民が ある晩突然 空から落ちてきた爆弾で一瞬のうち亡くなりました。

また食糧難で 庭の雑草を食べるほど飢えていました。スベリヒユやアカザという雑草の名前を覚えました。手足はガリガリに痩せてお腹だけはぷくんと膨らんで私は シリア難民の栄養失調の子どもの写真のような状態だったと 後になって聞かされました。

毎晩空襲警報が鳴り 風呂屋へ行くどころでなく そこへ大量のノミ シラミ 蚊が襲ってきて 痒くて痒くてつける薬もなく掻きこわして体中膿だらけ・・・今の時代では 想像もできないような不衛生そのものの生活を覚えています。

空襲 飢え 不衛生・・・でもそれ以上に苦しかったのが心の面での孤立の恐怖でした。父はキリスト教の牧師でした。キリストを唯一の神と信じる父と母にとって 当時「現人神アラヒトガミ」と崇められ 生きながらにして神であった昭和天皇を礼拝しなければならなかったこの時代は 本当に辛かっただろうと思います。キリスト教会は特高警察の監視が厳しく 信者は教会から遠ざかり 日曜礼拝には特高警察だけが出席しているという異常な光景だったということです。地域の住民からは「耶蘇教の牧師なんか敵性思想にかぶれたアメリカのスパイだ」といわれ 我が家は地域から完全に孤立していました。父が取調べのため特高警察から呼び出され 父が戻ってくるまで母はずっと祈っているというような 不安で重苦しい空気が 私の幼少期を覆っていました。・・・戦争はほんとうにイヤです・・・IMG_0017

(可愛い実をつけた風船カズラ)

キリスト教の牧師の一家6人がどうやってあの戦争の時代を生き残れたのか 今でも時々不思議な気がしますが やがて敗戦となり 日本にもたらされた憲法で「思想信条の自由」「信教の自由」も規定され  父たちは救われました。私も「外国との紛争は武器ではなく 言葉で解決する」という9条の精神に守られて なんとか戦争をしない国で過ごしてこれました。

ところが2012年に「美しい日本を取り戻す」と言って第二次安倍政権が誕生し【戦争が廊下の奥に立っていた】という渡辺白泉の有名な川柳みたいな 軍事的な空気が漂いはじめました。私はひじょうに危機感をもち 安倍政権が言っている取り戻すべき美しい日本て何だろう 力は及ばなくとも日本の近現代史を学ばなければ と思いました。「近現代史は学校で一度も習ったことがないよね」と主婦仲間10人で話し合い 10年くらい前に日本の近現代史を学びはじめました。その会は今も続いているのですが 本・資料・DVD・パソコンなどを頼りに 明治維新はどのように起こったか 明治政府が富国強兵・侵略に傾いていった経過 どのように戦争が起こり アジア各地の戦場でどのようなことが行われたか・・  など 歴史書・戦記・手記・映画などから 目を覆うような 吐き気をもよおすような戦争の実相も学びました。その時 戦争というのは殺人 強盗 放火 強姦など重犯罪の塊なんだと感じさせられました。日本軍の戦争犯罪の犠牲になったアジアの人々は2000万人とも言われています。「美しい日本を取り戻す」というフレーズは 少なくとも私たちの近現代史の学びから理解できませんでした。

そして2015年9月 安保法制が安倍政権によって強行採決された日 私は終電の時間ギリギリまで国会前で見守りました。幾多の命を犠牲にした戦争のことを思い私は「戦争はやめて!」と叫びたい気持ちでした。攻撃されてもいない国との戦争に アメリカと一体化して自衛隊が武器を持って出ていくということなど 一見して明らかな憲法違反であることは 小学生でも理解できるのではないでしょうか? 裁判長、どうぞそこを正してください。  私たちは決して諦めずに この憲法違反を問いつづけます。

畳のヘリにびっしり張りついていたウジムシの話を つい何年か前に2歳年上の兄に話したことがありました。すると兄は「あの時は7月で暑くて遺体の臭いがひどかったから自分はヤマユリを何度も取りに行って たくさん摘んできてその周りに置いた。そして遺体を焼く薪を焼け跡で集めて運ぶ手伝いをした。そうやってご遺体を教会の庭で焼いたんだ」と話してくれました。思い出したくもない空襲から70数年もたって はじめて兄弟でそのことを話しあいました。

日本は平和憲法を今こそ生かして 平和を輸出する国であってほしい・・・戦争を実際に見た一人として つよく願うものです。                             (これは2021年秋の安保法制違憲裁判で市民の証言として話したものです)      (土)

 

 

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 やっと話せた!                                                                      (せせらぎに咲いた真夏のバラ)

1945年8月9日長崎に投下された原爆で 約一ヶ月後の9月6日に私の三番目の姉が亡くなったときのことをお話しします。

今まで あの時は大変だったね と姉妹で話すことはあっても 本当のことは言えないまま 心にたまったものに蓋をして過ごしてきました。今回 四番目の姉といっしょに いろいろ思い出しました。晩年になってから語り部として話すようになった人の気持ちがわかります。

私は長崎郡部の小さな村で 父は役場勤めという家庭の 女の子ばかり7人姉妹の末っ子として育ちました。当時私は6歳でした。母は忙しく働くばかりだったので 私は17歳年上の長姉を 母のように慕っていました。歌がとても上手だった長姉は 師範学校をでて学校の先生になり その後結婚して家をでたときには とても寂しかった。そして原爆で亡くなった三女・幸子姉も 長姉と同じように優しくて歌が上手で 長姉に憧れて学校の先生になりたいと思っていました。手が器用で洋裁和裁をする家政学校にしばらく通っていましたが やはり先生になりたいと言って長崎の師範学校に入り直し 1945年の夏には「来春から学校の先生になれる!」と希望に胸をふくらませていたところでした。

敗戦まぢかで 師範学校の生徒は勉強どころではなく勤労動員の毎日で 幸子姉は長崎の三菱軍需工場に兵器作りにかり出されていました。ほかの生徒は休みだったのに 体格がよいため選ばれて 8月9日は出勤していたそうです。

三菱の地下壕の工場で働いているときに原爆が投下されました・・・爆風で飛ばされたのか 気を失って 気づいたら芋畑で倒れていたそうです。頭の上を人が這っていた  喉が渇いてたまらず流れていた水を呑んだ・・・と。

学校から家に伝令がきて 両親は長崎に駆けつけ探しまわりましたが 多くの死体を運び出しているなか どうしても見つけだすことができず その日は帰ってきました。

幸子姉は芋畑から寄宿舎になっていたお寺にたどり着き 夜を明かし 次に日汽車を乗り継いでか?わからないが 夕方家にひとりでたどり着きました。「帰ってきたー!」「よかった よかった!」とみんな泣いて迎えました。姉は当時の制服 作務衣のようなモンペ服と 足には草履と下駄を片方ずつ履いて ヤケドも傷もひとつないきれいな姿でした。

長崎に二日目も探しにいっていた両親は 必死で探しても見つからず あきらめて帰ってきて姉を見て みんなで喜びあいました。

幸子姉は怪我もしていないしどこも悪く見えないのに 家に着いた翌々日から具合が悪くなりはじめました。被曝のあと喉の渇きにたまらず呑んだ水で内臓がやられたようです。

近所に被爆時に全身ヤケドをして 赤チンだらけで帰ってきた男の人がいて その人の方が姉よりずっと重傷に見えました。でも姉はどうしても力が出ない感じで 母はそれを見かねて「川に洗濯にでも行ってきなさい 元気が出るから」と言いました。私たちはいつも泳ぎにいく川に行って 洗濯したりおしゃべりしたり・・・IMG_0013

でも姉は だる~い と言って家に帰ると それっきりもう床に伏せて動けなくなりました。内臓が放射能にやられて すべてが腐ってしまったかのよう 意識がもうろうとしてきました。髪の毛がすごい勢いで抜けていきました。髪を整えてあげようとすると気がついて「(来春から)学校の先生になるから 髪には触らないで」と言って 抜ける毛をおさえました。意識がなくなったり戻ったり・・・気分がいいときは歌を口ずさんだりもしました。

医者は毎日往診してくれましたが なんの病気かもわからず何をしていいのかもわからず 母もおろおろしてしまい 祖母がずっと姉の枕元に座っていました。食事はもう受けつけず 畑の黄色いスイカをつぶしてスプーンで一口入れると 口の中はすっかり腫れあがり皮むけの状態でした。髪の毛は抜けおち 上から下から腐ったものが出て 病名もナシ。

亡くなる前には ときどき「信号が!」「光が!」と布団からパッと起きあがり 姉にとってピカドンの光の印象がどんなにか強かったのだと思いました。

「仏様に参りたい 次の部屋まで連れてって!」と言って仏様に参りました。父には「うちは女の子ばかりで 御国のためになれないって言ってたけど 私が三菱の兵器工場で働いてたんだから うちもお国のためになったでしょ」と。父は泣いて なにも言い切らなかった。もう誰も なにもしてあげることはできませんでした。 

幸子姉は戦没者ということになり 戦死した兵隊さんたちといっしょに 村で葬式をあげてくれました。師範学校の同級生たちは 姉が体格がいいと言われて選ばれ 自分たちの身代わりになって当日出勤してくれたことを ずっと長く心にとめて 闘病中も毎日 また忌日には50回忌まで欠かさずにお参りに来てくれました。

原爆によって 長崎は草木も生えないだろうというほどに壊され 姉は教師になるという夢をうばわれました・・・長崎の地にキョウチクトウはふたたび咲きはじめたけど・・・姉は帰ってきません。たったひとつの命だけど 姉を想うと遠い6歳の記憶がよみがえり 胸が張り裂けそうになります。                                  (KH)

 

子供の頃の戦争のこと                  (せせらぎ遊歩道のサルスベリ)

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カーテンをあけて 今日一日元気で過ごせるよう体内時計を整える。百日紅サルスベリの花が少しあざやかになってきました。なんと平和な朝なのか・・・と幸せを感じる一方 ロシアに侵略されたウクライナは 戦争のため人々や子どもたちは戦火にあい 平安な生活を奪われています。一日も早く終わらせて と祈るばかりです。

80年前 私が子どもの頃 日本もアメリカと戦争をはじめてしまったことを忘れることはできません。「欲しがりません勝つまでは」の合言葉 なんといっても食べるものは豆カス たくさん収穫できると植えられ見たこともないような大きさで美味しくないサツマイモ などがお米の代わりに配給され フスマのような団子入りスイトンをすすりながら 飢えをしのいだ時代でした。

戦火は激しくなり 空襲警報が出て 部屋の明かりを暗くしたり 防空壕に避難したり 生きた心地のしない毎日でした。ある夜逃げる途中 私は家族とはなれてしまい 夜でも真昼のように明るく照らす敵機の下に身をかがめて 防空壕に逃げ込んだ怖いことも思い出します。近くの寮に焼夷弾が落とされて 青年が何人も亡くなりました。 

そんななか小学校の3年以上の生徒は疎開するようになりました。田舎に親戚のない私はやむなく集団疎開することになり布団を担いで 場所は豆腐料理が有名な大山へ行きました。ノミとシラミに苦しめられた生活しか憶えていません。いま考えても あまりに不衛生なことで 戦後になってもしばらく布団から退治できず困りました。 1644326406468-qx1ngqFbhE

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(大山にある川崎学童疎開児の記念像)             私の生家は焼かれた とうちから知らせがきました。火の粉が飛びちるなか 藁葺き屋根の家は焼け落ちてしまったと。近所に兵隊さんが駐留していましたので 当座必要なものを運び出してくれて 助かったと言ってました。

家族は無事でしたが 幼い私がひとり生き残ってしまったら忍びない と思ったのか 敗戦を待たず理由を見つけて8歳上の姉が大山に迎えにきました。川崎大師の駅に降りた時 子どもの私は 自分が住んでいた家の方向はどちらかわからないほど いちめん焼け野原になって 驚くばかりでした。

戦争は絶対にしてはいけないのです。戦後 日本には平和憲法ができ 9条により戦争はしないという宝があります。しかし今 戦争を知らない政治家により この宝をこわそうとしている動きが見えます。   私のごく小さな体験を記してみました。             (三)IMG_0001

 私の戦争

あの土曜日にきた                                    あの日は土曜日でした。国民学校2年生の私たちは 帰り仕度をしていました。その時警戒警報が鳴りひびきました・・・が 私たちはちっとも慌てません。なぜなら毎日ラジオが報じる日本の戦況に安心していたからです。毎朝 軍艦マーチから勇ましくはじまる大本営発表のニュースでは 日本は連戦連勝で戦果はすばらしく 世界平和を目指して驀進中とのことでした。

土曜日のあの日 学校から帰宅すると 通信兵志願を目指して勉強中の従兄が家に来ていました。母は奮発してカレーを作って 私の帰りを待っていてくれました。そろそろ食料事情も厳しくなってきた頃で 私はおいしいカレーに大満足して 幸せ~~と大の字に寝ころがったり・・・と とても平和でした。そして何気なく縁側の廊下から空を見上げると 低空で飛んできた飛行機から ランドセルの中の筆箱より少し大きめの物体が落ちてきたのでした。なんの音もしなかったのに 数分後に家が揺れ 家がつぶれるのではないかと思うほどの大きな音がしました。

私と従兄はなにが起きたのかわからず その場にへたりこみました。近所のお母さんたちは外へ出て不安そうでしたが 話題は棚の物が落ちたというような話だけでした。警防団の人たちがメガホンで 家の中に入るよう叫んでいました。

急に外がざわつき 走る下駄の音 なにか叫んで走る人たち・・・何か恐ろしいことが起きているのではと 従兄は私の手を握り外へ飛びだしました。母も妹を背負って 近所の人たちが走る通りへ出ていきました。

そこで目にしたのは上半身血だらけの人 顔から頭から血が流れている人 手拭や風呂敷を包帯がわりにしている人 服の背中が裂けて血だか肉だかがベットリ 上半身のあらゆるところがそのような人々。その人たちはみな無言で どこを見ているのかわからないうつろな目 痛そうな顔もしていません。その数30名 いや50名と増え その行列は日本鋼管病院を目指して歩いているようでした。

日本は勝つと信じて普通に生活していた私にとって 戦争はあの土曜日からはじまったのでした。

それ以後 各家庭に防空壕を作ることが命じられました。でも住んでいた所(現在の川崎区)は埋め立て地が多いので 1メートルも掘れば水が湧きます。命令なので掘りましたが 私たち家族は自宅の押入れの上段に布団を積みあげ 下段を防空壕のかわりにしました。今思えば なんの役にも立たないのですが。

このような時でも 学校に行くのは楽しかった・・・戦争を忘れられたから。なのに毎日級友が2人 3人といなくなるのです。最初 先生は機銃掃射で亡くなったことを伝え 「敵機がきたら物陰に隠れて身を守るように」と話したのですが まもなくその話はしなくなりました。私たち小国民の戦意をそぐような話は禁じられたのではないかと思います。そのころからB29の飛来しない日はなく 午前 午後 夜と空襲のサイレンは鳴りっぱなしになりました。

そのころまだ2歳にならない妹が百日咳にかかり これといった薬もなく入院ということになり 母も付き添いました。私は急遽 群馬の母の実家に疎開することになりました。  田舎は食べるものもあり 空襲のサイレンは鳴りませんでしたが 8歳だった私は「川崎で母も妹も死んでしまうのではないか」と心配でたまらず 夕方になると涙が止まりませんでした。 

自分は川崎の戦火から逃れてきたけど あの土曜日に川崎の家で見た 上半身に怪我をした人たちはどうしただろうか。なぜみな上半身だけ怪我をしたのだろう? きっとあの人たちも私と同様 日本に爆弾など落ちるとは思っていなかった。全国民が大本営発表を信じていた。爆弾が落ちてきたとき ”あれは 何だろう” と立って見ていたのではないだろうか? 立っていたために爆風と飛んできた瓦礫で 上半身の怪我となったのではないだろうか?                   あの時代 私たちは大本営の情報を信じて生きるしかなかったのです。

 栄養失調と皮膚病(カイセン)で死んだ男の子                       私が田舎に疎開したあと 続々と疎開者は増えてきました。退院した妹を連れて母もやってきました。私たちは(親や兄弟を頼っての)縁故疎開だったので 貧しくとも住む所はありました。ところが住む所がなくて 山羊小屋に疎開してきた人がいたのです。

田舎の学校は正門はありましたが 校庭にはどこからでも入れたので 私はよく桑畑を走りぬけて学校に入りました。桑畑のところに山羊小屋があって 2匹の山羊がいました。ある日その山羊がいなくなり 小屋に床が張られ 入り口にムシロが吊るされ 人が住みはじめたのです。私はびっくりして 母に山羊小屋のことを話すと 母は「可哀そうに親戚もなく 遠いツテを頼りにここへ来たのだろう」と。朝は急ぐので桑畑と小屋の前をとおって学校へ行きましたが 帰りはその小屋の住人と会うのははばかられて 正門から帰りました。

数ヶ月たつと 住人は母親と男の子だということがわかりました。男の子は病気のため学校には来ませんでした。私は気になって ある日桑の実を摘んで両手に持ち おそるおそるムシロから顔を入れました。「桑の実だよ 甘いよ 食べて!」と はじめてその子の顔を見て びっくりしました。目は落ちくぼみ 頭や顔は皮膚病の白い軟膏が塗られて とても子どもの顔とは思えませんでした。

それからはおやつにもらった干し芋を 一つは残してその子に持っていき ザクロが色づくと「取ってはいけません」と札を下げ 熟れたらその子に持っていきました 私も食べたかったけど我慢して・・・

そしてある雪の日 ムシロがはずされ 気づくともう人は住んでいませんでした。母に話すと「死んだそうだよ 結核も患っていたので火葬にして母さんと東京に帰った。可哀そうだったねー」と。

戦地に行って戦って死ぬだけでなく 国内でこのようにして死ぬ人も大勢いたと思います。私は『火垂るの墓』を見ることができません 飢えても健気に妹を守るお兄ちゃんに 涙してしまうからです。戦争はほんとうにむごく なにも得るものはありません。

80年近く前に経験した戦争のことを思い出して書いてみました。反省と教訓が自分のなかにあります。それは大本営発表を信じきっていたことです 情報は極端に限られていました。

今は だれでも・どこからでも・どんな情報でも手に入れることができる時代。だから私たちは 真実はなにか・どの情報が本物か・どう行動するか を自分の頭で考える力を養う必要があると思います。自分の頭で考えて ふたたびあのような戦争を起こさない力になりたい とつよく思います。                                  (前)IMG_0008                                     (サルスベリの幹の樹皮がはがれ落ち ツルツルの木肌が出てきました。)